ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

バウンド:王国の欠片のなみなみブロックを作った

バウンド:王国の欠片というゲームをやってる。

 

www.youtube.com

 

現代美術+バレエがコンセプトらしい。

現代美術もバレエも良く分からないが、アブストラクト好きとしては、どストライクのアートワークだった。とくに遠景でなみなみしてるブロックは最高。

 

感動しているうちに自分で作りたくなったので、ちょっとしたプログラムを作ってみた。

 

クリック:波を起こす(押しっぱなしでスライド可能)

メニュー:質量、張力、減衰、初期波の高さを設定。リセットで座標を初期化。

 

 

見比べてみると全然違った。

かなり手抜きのアルゴリズムなので、もうすこしそれっぽく見えるように改良したい。

シェーダーを書いて軽量化もしたいな。今はブロックの数が250個だけど5000個ぐらい出したらそれなりの迫力になりそう。あと、もういくつか再現してみたい演出がある。

 

インフレームにしたかったので解像度を落としてコンパイルしたけれど、アブストラクトなデザインだと低解像度でも違和感が少ないからいいな。

洗濯物が揺れている

 窓の外を眺める。洗濯物が揺れている。

 その光景を眺めていると、タオルにくるまれている猫を見ているような気分になる。干された洗濯物が揺れる姿に、穏やかな感情を抱くのは私の感情複合なのだろうか。家庭的なものにたいする情動。でも、「洗濯物を干す」のが「家庭的」かというとやっぱり疑問が残る。

 

 私が汚した私の服を、私が洗って私が干して、のざらし。

 そういうのが、なんとなく「いのち」っぽくて好きなのだろう。

 小難しいことはあまり考えたくない気分だ。

 

 梅雨の晴れ間に、はからずとも早起きが出来て洗濯する時間が取れる、なんていうちょっとしたラッキーが人生にはポツポツと落ちている。

 朝の家事をすませ、シーシャと紅茶を用意して、味わいながらぼんやりする。

 思い出したようにブログの続きを書く。

 一行書いてはぼんやり。

 

 さいきんは、ぼんやりもワクワクもドキドキも、ずいぶんフラットになってしまった。それらの感情が小さくなったわけじゃなくて、観測できる範囲に入ってきてしまったので、相対的に小さく感じている。

 感情や思考の勢いが無くなってしまったら、生きる気力がなくなるかなと思っていたけれど、そんなことはなかった。観測できる範囲で遊ばせておくのも、それはそれで楽しいものだ。いざというときに、すかさずキャッチできるという感覚をもつと感情や思考と向き合いやすい。キャッチャーインザライ。

 

 今の状態は、感情や思考を無意識に均したり膨らませたりしていたころよりはいいかもしれない。この状態がいつまで続くか分からないけれど楽しんでおこう。

 

 そうなった理由は、生活習慣の変化と投薬と、あと認知改善とか、まあいろいろあると思う。といっても「何をしたから変わった」ということはなくて、ただ今までずっと準備してきたモノを駆動させるパーツがやっとハマったような感覚だ。

 

 とうめんはこのフラット状態を乱す要因を極力排除していくことと自分の操作性が増したので色々と試してみることを目標にしていこうと思う。

サプライズとゲインロス

 フラッシュモブでプロポーズ失敗っていう話は定期的に話題に上がるのですが、そもそもフラッシュモブってストリートパフォーマンスの一種なので、「特定個人に逃げられない状況で見せつけるってどうなのよ?」と思うものです。

 歩いてたらいきなり道をふさがれて、つきっきりでパントマイムなんか見せられて、終わったあとにどや顔されても困るでしょう。

 

 とくにフラッシュモブは、「集団」が「突然」にやるわけですから、ともすれば騒乱や暴動に近しい印象を与えます。

 なので最低限、部外者が「自分で巻き込まれるかどうかの選択権」をもてるという条件は守ってほしいものです。だからストリートパフォーマンスの範疇じゃないとあまりよろしくないんです。

 また対象が特定個人の場合、それ以外の人たちは演者か観客になるわけで、すると人によっては疎外感と衆目にさらされる恥ずかしさを感じるでしょうから、そういった点も無視してはいけないでしょう。

 

 関わる話でサプライズというのがありますが、これもまた批判が多いものです。それも当然で、サプライズされる側の意思は基本的に尊重されないからです。

 

 とはいっても、人同士のやり取りの全てが的確な意思疎通だけで、これから起こることはすべて予定調和だけというのも味気ない気がします

 たとえばふと「○○がほしい」なんて言ってたのを聞いてて、それをこっそり買ってくるようなサプライズは比較的好印象です。関係の積み重ねから導き出された正確性のあるサプライズなら、人生の潤いとしてありなんじゃないかなと思っています。

  

 しかしながら、サプライズが「なぜ用いられるのか」という心理を考えてみますと、サプライズがもつエンチャント力に頼っているわけですから、そのことを分かったうえで感動するなり喜ぶなりしておいたほうがよいと考えています。

 

 というのも、サプライズはいったん心を乱しておいてから好意的な行動をするわけですから、行動そのままの勝負ではなく、ある種の搦め手を使っているわけです。もちろん、見せ方を工夫するのは大切です。料理だって食器や店の雰囲気を、全く無視して作られていては、おいしいと感じにくいでしょう。しかしながら、「粉飾性がある」という意識の碇は常に必要です。

 

 心理学にはゲインロス効果というのがあって、いったんマイナスにしてからプラスの行為をすると相対的によりプラスになるという心理効果があります。

 たとえば誕生日に誰とも約束が取れず、しょぼくれて帰ってみると家ではサプライズパーティの用意がしてあった。なんてのは創作でよくあるはなしです。これはマイナス気分から大きくプラスに転じさせることで、感動をブーストしているわけです。

 

 ちょっとまえに話題になったナンパ術の「ネグ」なんかもそうですね。マイナスの気分にさせておいてプラスにしています。

 でも実際のところは、大してプラスではない言動だし、そもそも侮辱されてるのだからプラマイゼロかマイナスのはずなのに、なぜかゲインロスを使わないまともな言動より、よいと感じてしまう心理があるわけです。

 

 結果的にそうなってしまうのなら仕方ないでしょう。たとえば、まじめで硬そうな人が仲良くなってみると意外に愉快で独特な人だったみたいなのは、よくある話です。

 

 しかし、意図的にゲインロスを使う人はいるし、その場合は裏に相手をコントロールしてやろうという意識があったりします。さらに、無意識にそういった言動をする人もいます。そういう人たちの言動は印象よりもプラスではないのです。

 

 サプライズやマイナスだと思える行動を取られた後に、プラスに転じたとして、それが感動的であってもちょっと足を止めて、フラットに考えてみて「なにかおかしくないか?」と思い返すのは大切でしょう、

 もちろん、自分の行動が無意識にそうなっていないかを考える必要もあります。

スキンシップのはなし

togetter.com

 

 義務教育では「あたまポンポンだめ」って教えるんじゃなく、「触ってもいいですか」と許可を取りなさいと教えたらいいんじゃないでしょうか。加えて、いやだったら明確に断りなさいとも教える必要もありますね。

 あたまポンポンだけ禁忌にしても、それだけにしか使えませんが「許可を取る」なら全てのケースに対応できます。

 

 そりゃあ、さりげなく相手を不快にさせないスキンシップが出来たらスマートでしょうけど、かなり高度なスキルなので、誰かに教わらないと出来ない上に、もともとの向き不向きがあります。

 しかも、現状の日本でそういうの教えられる人って殆どいないんじゃないかな。まわりを見渡しても、だいたいの大人って「さりげないスキンシップ」が出来てないわけですから、そういったスキルを磨ける土壌じゃないわけです。

 

 恋愛指南書みたいなのは売ってますけれど、それって台本だけ読んで落語を覚えようとするようなもんじゃないでしょうか。

 いや私が知ってる恋愛指南系って「円楽のプレイボーイ講座12章」だけなので、実際どうなのかは分からないですけど。(えっ、あれはそういうのじゃない?)

 

 土壌がないのに無理やりにスマートを目指しても、見たこともない異国の料理を作るようなもんで、ビーフシチュー作ろうとして肉じゃがが出来たみたいな幸運が起こればいいけれど、大半はトンデモナイ料理になるわけで食べさせられる人はたまったもんじゃないでしょう。

 それだったら、下手にスマート目指さないで、ちゃんと許可を取るという風潮を根付かせた方がいいんじゃないかな。そういえばセックス合意書なんてのもありましたね。

 許可を明確に取るのっていいと思うんですよ。人間同士の細やかな機微が読めない人っている(私もそうですが)ので、そういう人に無理やり空気を読ませようとすると、「どうせだめだから何もしないでおこう」と抑圧的になるか、「あたまぽんぽん」のようにズレた積極性を獲得してしまうわけで、ならいっそう直接的交渉も全然オッケーって風潮にするのが一番いいと思うのです。許可取るのは当たり前、断るのも当たり前ってなればすっごい楽です。

 

 それで少し前にこういうのがあったのを思い出しました。

 

www.huffingtonpost.jp

 

引用

文化による違いは、社会的ネットワーク(家族、親族、友人など)による違いより影響力が小さいのです。ボディマップも文化が違っていても似た結果になりました

 

 

 と書いてありますが、ちょっと結論が急ぎ過ぎな気がするというか、日本でも同じようになったのだろうかといのは疑問が残ります。文化によってスキンシップの意味合いって変わってくると思うので。たとえば、ハグやキスは国によって意味合いが違うじゃないですか。

 あたまポンポンに戻りますと、日本は男女ともに頭髪にこだわる文化があるので、ボディマップでの頭はもっと黒くなってそうです。

 

引用

面白い結果もあった。女性は男性に比べ、体を触られることに抵抗感が少ない。また男性は、同性に触られるよりも女性に触られる方が抵抗感が少ない傾向にある。

 

 これも生来的な性差が全くないとは思いませんが、文化的な側面が強いように思えます。触ることが性的であると考える度合や、男女の権力構造といった点でボディマップの性差も生まれるのではないでしょうか。

 例えば、触ることに性的意味合いが強いと考えていて、男女に格差があり男性優位だった場合を仮定します。

 この場合、男性が同性に触られるのは性的意図か、優位性を示されていると感じるでしょう。例えば日本なら、上司から部下へ労いの言葉とともに肩を叩くといった接触が起きることがありますが、その逆のパターンはレアです。

 これが異性の場合なら、性的意図を示されていたとしても優位性は崩されないので、積極的解釈をしやすいのです。つまり、異性に触られることを想像したときに、自分の都合のいい相手と状況を考えやすいということです。それにもし万が一、都合が悪い状況でも反抗できるという自負もあります。

 

 女性の場合は、異性からの接触は性的意図と優位性の誇示なので、かなり深刻な印象になるでしょう。逆に同性との接触は、男性同士よりも開かれた印象になります。

 

 接触が性的意味合い以外でも、親密さを表すコミュニケーションであるという文化が根付き、男女の優位性がなくなれば、ボディマップは男女ともに同じ色合いに近づいていくと思います。

 

 日本でこのボディマップの統計取ったらどうなるのか、とても気になるものです。

きしねんりょとゲーム

 ひらがなで書くとやわらかいかなと思って書きました。さいきんは希死念慮が強くなってきています。といっても、別だん辛くないというか、辛いことは辛いのですが、なにかストレス要因があるわけではないです。むしろ、状況的にはわりと良好だと思います。

 とりあえず、やりたいことはあるし、一人の時間は取れるし、仕事も忙しくないし、大きなもめ事も起きていません。

 

 むしろ、どちらかというと良い傾向です。私は過活動が起きると希死念慮が強まるので、脳のホルモンバランスが大きく変容しようとしているのだと思います。

 

 なにか大量に神経伝達物質を分泌したくなって、でもその手段がないので「死にたい」みたいになっているのです。双極性の躁状態に似ているかもしれません。診察を受けたら、診断がおりるのかもしれません。

 でも、私は抑うつ状態がないのと社会生活に支障をきたすような躁行動はないので、まあいいかと思っています。

 

 小さいころは「死にたい」というのが良く分かっていなかったので、二階から飛び降りたりしていましたが、大人になってからは「死ぬ」というのがわかるようになったので、ついつい夢想してしまいます。もちろん、面倒だし痛がりなので死にません。飛び降り欲求もバンジーしてからは落ち着いています。もし落ち着かなくなったらまたバンジーに行こうと思ってます。

 もちろん、悶々と死にたいなーと考えるのはあまりよろしくないと分かっているので、そういうときはゲームで凌いでいます。

 

 微弱な能動性と受動的に課題を設定してくれる。これが非常にいい希死念慮対策になります。これがより高度な能動性と自発的な課題設定の必要な創作活動になると頭をどうしても回転させなきゃならなくて、そうなると回転し始めた脳が勝手に死にたいとか言い出すので面倒です。

 

 かといってあまりに単純すぎることや刺激の強すぎることもよくありません。単純すぎることは、飽きてすぐに「死にたい」に戻ってしまうし、刺激が強すぎることは依存が強くなりすぎます。

 ゲームですら数時間ぶっ続けで遊んでしまうぐらいなので、これより刺激の強いものは危ないのです。

 人に会ってキャラクターを演じるのも希死念慮を吹っ飛ばすのに有効なのですが、会ったあとの反動がデカいのとコントロールを間違えると攻撃性が出てしまうので出来るだけ避けています。

 

 やっぱりゲームがちょうどいいですね。次点で音楽を聴きながら謎の創作ダンスをすることです。映画は受動的すぎるのでダメですね。読書や勉強は脳が回転し過ぎます。

 

 あと最近は家事なんかも希死念慮対策にいいと分かりました。延々とトイレを磨くのはいいものです。

 

 そんな感じで久々に希死念慮と向き合っていますが、いい具合に対応できているので、私も生きるのが上手になったなと思います。 

 新しいゲームを二つ買ったし、スプラトゥーンも再開したので、じっくり楽しみたいです。

親密な関係性を売ることに問題があるわけではない

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 親密な関係性を売りにしているアイドルがいるのは確かですが、親密な関係性を売ることに問題があるわけじゃないでしょう。

 どんなに親密な相手でも「拒否した行為はしない」というのが大前提です。

 だから、友人・恋人の関係を売っていたとしても、買った相手の要求に応じるかどうかは売った人間が決めていいのが当然です。他人でも友人・恋人でも、相手に提供したくないことは提供しなくていいのですから。

 友人・恋人だとしても、SNSの返信をしたくないときはしなくていいし、プレゼントがいらなければ返していいし、身体的接触がいやなら拒否していい。

 

 これが「SNSで丁寧に返信するサービス」「プレゼントを受け取ってお礼を言うサービス」「身体的接触を提供するサービス」だったら話は別ですが、人間関係を売っているならば要求は拒否して構わないはずです。

 

 問題は「友人・恋人という関係性なら、ここまでは応じるべきだ」と勝手に思い込んで、それを相手に押し付けていいと考えている側にあります。これは支配の萌芽なのですが、しかし、常識・倫理観というもので正当化してしまえます。

 恋人なら「プレゼントされたら喜ぶべき」「SNSでレスすべき」「親密な応対をすべき」「セックスすべき」という「べき」意識が根底にあります。

 

 「アイドルにプレゼントを送って、返されたから逆上して殺傷する」というのはクレイジーですが、自分の恋人にプレゼントを送ったけれど「いらない」と言われたときにどう対応するのかという話ならば現実味を帯びてきます。

 あるいは、子供にある分野の教育投資を沢山したにも関わらず、それとはまったく別の分野に進みたいと言われたときに、親としてどう対応するかなんてのも同じ話です。

 

 関係性の中に勝手にストーリーを作り、勝手に投資をし、そして狙ったリターンが得られなかったときに相手の意思を尊重できるか。

 相手の意思を尊重できないなら、結末は飛躍しますが、相手をめった刺しにすることと同じ地平です。対象がアイドルであろうと、友人・恋人・親子であろうと意思を尊重するという前提は覆せません。

 

 相手の意思を尊重したとしても納得できないことは当然あるでしょう。そうしたら、納得できないことだけを伝えて、あとは相手の対応を見ます。対応に変化がなかったら、自分が出来る範囲で我慢すればいいのです。我慢するのに「相手はアイドルだから」という理由付けはいりません。ただ他者だから我慢するのです。そして、我慢が出来なくなったら、相手から離れればいいだけです。

 そのために「これだけ投資したのに離れられるわけがない」と、コンコルド効果を感じてしまうほど投資しないように注意しておくのはいいでしょう。好意と行動にレバレッジを掛けてはいけません。リターンが想定通りじゃないとき、自分の感情のコントロールが面倒になります。

 

 友人や恋人は自分へ特別の便宜を図ってくれる人物ではありません。たとえば、友人は「自分だけに多大な時間を割いていくれる相手」ではないし、恋人は「自分だけを性的対象に見てくれる相手」ではないです。

 ようするに友人・恋人は「自分だけのもの」という考え方をなくさないと事件の小規模版みたいなのは常に起きるわけです。

 

 なら友人・恋人と他人の違いって何なのかというと、互いに唯一性をもって縛りあう関係ではなく、単純にお互いの需要と供給が他人より明確になって、しかもいい具合にマッチングしているというだけのことです。

 

 だから極端な話、アイドルを恋人だと思ってもいいわけです。ただし、SNSではレスがない。会話もしない。セックスもしない。ほかの異性とも仲良くする。そういう恋人だと思えばいいだけでしょう。

 納得できるかどうかは、本人の問題です。常識による裏打ちなんて必要ありません。自分の意思が大切です。

 アイドルの供給してくれるものが、自分の需要とマッチングしていて、相手に無理をしいらない関係性なら、本人がそう呼びたければ「恋人」と呼んでもいいのです。言葉には明確に意味を定める必要のあるものと、そうでないものがあります。

 もちろん、「○○っていうアイドルの恋人だ」と公言するのはやめたほうがいいだろうし、相手に伝えることもよくないでしょう。しかし、思うだけなら自由です。

 

 そんなの恋人じゃないと思うのもいいでしょうが、そういう考えが根底にあると恋人が出来たときに「こまめに連絡を取る」「前向きな会話をする」「セックスをする」「他の異性とは仲良くしない」みたいに、相手を「恋人とはかくあるべき」という枠へ放り込む場合があります。

 そして、相手が枠から逸脱した際に、何らかの方法で矯正しようとする可能性があります。そこで手段として暴力を使う人がいます。つまり、相手をコントロール・支配しようとするわけです。

 

 アイドルだろうと、シンガーソングライターだろうと、関係性を売っていようといまいと、犯人がアイドルオタクだろうと柔道家だろうと、今回の事件の原因はそういった「枠同士の関係性」にありません。アイドルが被害者だとメディア的に面白いから広く伝播しただけで、問題の本質は違います。

 問題は、どこにでもあるコントロールの構図です。なにかしらの力(腕力とは限りません)を使って、相手の意思を捻じ曲げてやろうという意識がもたらすものです。

 だから、見えないところに同様の被害者は沢山います。殺されこそしないものの、同じような仕組みで支配されている人はたくさんいるでしょう。

 そして支配者は自衛したところで、ただ御しやすいターゲットに流れていくか、自衛できない箇所を突いてくるだけです。

 

 他者を枠にハメない。

 他者を操作しようとしない。

 

 この二点の周知徹底がこのような事件の解決には一番の近道でしょう。

 

 友人、恋人、夫、妻、子供、親、アイドル、ファン。そういった言葉があり、そこへ人を放り込んで「かくあるべき姿」を押しつけ、枠から外れる人へ「正義の鉄槌」を下そうとする意識が人々の中にある限りは、それが社会的に歓待されるか否かといった尺度で語ることは出来ても、同様の事件を防ぐことは出来ないでしょう。

 

 もちろん、現状での個々人の対応策は、引用したブログが指摘するように相手がどのような関係性を求めているかに注視して自衛するということになってしまうのですが、本来ならば恋人でも友人でも、どんな関係性だとしても、相手が拒否したら尊重しなきゃならないという道徳が敷衍されなければいけないのです。

知識と結合

 知識は持っているのに、それが問題解決に役立たないという話を聞きました。例えば、数学の公式や英語の単語は知っているのに、それを試験でひねった感じに出されると答えられないといようなことです。

 

 知っているのに問いが変わった形で出されると答えられないというのは知識を結合させる力が弱いということです。

 たとえば、「カラスは鳥で黒い」という知識があったときに、「黒い鳥はなんですか」と聞かれれば「カラスです」と答えられます。

 

 しかし、「該当のない暗い夜道で羽ばたく音がした。その方を向いてみると暗くて種類までは断定できなかったが、鳥が木々の間を縫うように飛んで行った。さてこの鳥はなんだろうか」という質問だとすんなりカラスが出てこないということです。

 これは、カラスは黒い鳥である。という情報と、夜は黒が見えにくいという情報が上手く結合させることで答えが導き出せます。

 すんなり答えが出ない人は、カラスが黒いということを知らないのではなく、カラスの黒さと夜の暗さが結びつかないだけなのです。

 

 そして知識の結合力は一長一短では身につかないものです。なぜなら、結びつけるには適切な知識を身に着け、そのうえで知識の間にある明文化されない流れのようなものを見つけ出す必要があるからです。

 流れが見えてくると、知識の「似ているところ・全く似てないところ」が分かるようになるので、知識同士を「まとめる・ぶつける・代用する・一部だけ借りる」といったことが出来るようになります。いわゆる応用力というものですが、これは知識量と抽象化力、推論力が求められるのです。

 このさらに結合力があったとしても、知識が誤っていると間違った結合をさせてしまいます。たとえば、さきほどの「夜に見た鳥はカラス」は間違っているかもしれません。なぜなら、黒い鳥はカラスだけではないし、カラスは昼に活動することが多いためです。しかし、通った道の近くにカラスの巣があるという情報が追加されれば、また結論は変わってきます。

 このように、いくら抽象化・推論力があっても前提となる知識が間違っていると結びつきも変わってしまいます。

 

 間違った知識を前提に、強引に抽象化と推論をしてしまうと「妄想」と呼ばれるものになりがちです。

 ある分野では知識が豊富で素晴らしい結合を導き出す人でも、全くの別分野では偏狭で浅い答えを導き出すことがあります。それは知識の足りない状態で強引に抽象化と推論をしようとするためです。

 

 もちろん、抽象化と推論自体は素晴らしい脳の働きですから、それ自体を否定するものではありません。私は妄想が大好きです。さまざまな知識同士を幅広く受け入れられている定義にとらわれず、自由に結び付け、置き換え、発展させていくのは何とも楽しいことです。

 

 しかしながら、誰かと対話をするのを前提とするならば、妄想になってしまうのは、あまり良いとは言えません。なぜなら対話は知識の合意を確かめる側面があるためです。つまり、より多くの人が合意している知識を元に考えないと対話が成立しないのです。正解のある試験はとくにその性質を問われます。

 

 ですので、正しい知識を蓄えること。その知識を可能な限り分解すること。分解したパーツをどうやって使うか考えること。これを繰り返していかないと「問われたことに答えられる」段階までは辿り着くのが難しいのです。

 

 知識を蓄える。これは日々コツコツとやるしかありません。ですが、コツコツやれば確実に伸びていくものです

 結合力の高めかた。これは面白がることです。得た知識をいろんな角度から見て、ここは分解できるんじゃないか、ここはこういう使い方も出来るんじゃないかとワクワクしながら想像することです。

 そのうえで、思いついたことを試せる環境が必要です。失敗してもオーケー。とりあえずやってみようと思い、実践を許してもらえる場が必要です。

 学生はまさにジャストな環境なので、どんどん知識を得て解体して使ってみて、間違えるのがよいでしょう。社会人は仕事でそれをやると損害が発生することもあるので、ある程度の枠を決める必要があるのは仕方ありません。しかし、損害の小さい仕事やスキマ時間、趣味で試行錯誤はできます。例えば、DIYなんかしてみると、この素材はこういう風に使えるかも、なんて考える必要があるので、なかなか結合力の訓練になります。

  そんなことを続けているうちに、体に染みついた知識たちが自然と手を取り合って輪を作り出す瞬間が来ます。なので焦らずに知識を集める。集めた知識をこねくり回す。といことを繰り返していけばいいのだろうと思います。