ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

「離婚しなよ」って軽々しく言えない。

 くたびれはてこさんという方のブログで、結婚されている人なのですけど、旦那さんとちょっとした衝突があって、それを記事にしたら「離婚」っていうコメントを付けている人がいました。それでちょっと思うことがあるので書きます。

 あと私は死ぬほど暇人でさらに意識が低いので、日ごろからスマートニュースを見て時間を浪費してるんですけど、それでたまに鬼女板のまとめサイトが取り上げられてたりして、そこでもレスの結論がとりあえず「離婚」ってなってたりして。

 なんだろう。なんでそんなに安易に離婚を奨めるのだろうか。まるで離婚推奨委員会みたいなのがあって、裏で工作員を雇っているのかもしれない。まあ一部の過激な声だとは思うんですけどね。

 いや別に離婚ってしていいと思うんですよ。そもそも結婚してるかしてないかって、社会制度に適合できるかどうかの話で、私はそういう部分には大して興味がないので、どうでもいいと思ってる。どうでもいいんですけど、それでも外野がサクッと判断できるほど軽い話なのかなってことです。

 だって世の中には千差万別の夫婦のあり方があって、その二人が培ってきた関係性って外側からじゃ絶対見えないです。外部の意見を取り入れて視野を広くするのは必要ですけれど、でも安易に関係を切れとは誰も言えないはずです。

 例えば離婚のよくある理由に「夫・妻が浮気をした」ってあります。それは、もちろん酷いことです。酷いことなんですけれど、その酷さって外野からは記号的にしか受け取れません。

 夫婦の間には記号ではなくて文脈があって、それが結果的に「浮気」といった記号として現れています。だから文脈的に正しいのであれば、浮気されても離婚しないって選択肢はあり得て、その選択肢を取った夫婦を記号しか見てない外野が容易く批判はできないのです。

 夫婦が別れないのは、二人の文脈が記号より強いからです。そして、それはとても尊いことです。もちろん、浮気を正当化するわけではないし、浮気した側がされた側を支配しているから許されるって構図なら批判されるべきなんですけど、そういう場合じゃなくて、互いに対等に考えあって離婚しないって結論になるのはおかしいことでもなんでもないと思うのです。

 逆に記号が文脈より強いことは、断言できないんですけれど、たぶんとても悲しいことなのだと思います。記号が文脈に勝つのをみるのは、あまり好きではありません。

 

 最近、マイインターンって映画を見たんですけれど、あれは文脈が記号に勝ちまくる映画なんで愉快でした。まず定年退職した老男性ベン(ロバート・デニーロインターンとして、若い女性の社長ジュールズ(アン・ハサウェイ)の部下になるって設定の時点で記号をぶっ壊しにかかってます。ベンは会社を退職して妻に先立たれ、あとはよくいる記号的な老人として日々を過ごしている。そういう状況を変えたくて、ベンチャー企業を受ける。ジュールズはファッションとITを組み合わせたベンチャー企業のやり手女社長っていう典型的な記号で、また彼女のものの見方はどことなく記号的だったりする。そんな二人が互いの記号的な部分を、互いの文脈で相補的に解消していく過程が描かれています。それも、どっちか一方が正しくて、一方的に教わるって関係じゃなくて、ちゃんとお互いの良い文脈を吸収しあっているってところが素敵です。デニーロがアンハサウェイにフェイスブックの使い方を習っているシーンとか、ほんとうに夢のような情景です。

 

あ、ネタバレします。

 

それでラストもですね。ジュールズは浮気した旦那とくっ付き直すのですが、そこは賛否両論あると思うんです。ともすればハリウッド的なご都合主義のハッピーエンドにも見えるのですが、私はあのラストが互いに文脈を確認し合って、互いにどれだけ大切なパートナーだったかを思い出した結果だったと思っていて、そんなに乱暴じゃないと考えています。むしろとても道理にかなっているというか。記号が文脈に勝ってて単純に素晴らしいなーって思いました。会社を買収させないってのもよかった。ベンチャー企業って話題性が出たときに、どこかの強い資本に買ってもらうのが記号的に正解だから。

 

ネタバレ終わり。

 

映画の話で脱線したついでに脱線しますが、昔は女子高生に性的な目を向けていた人が、娘が出来てからそうではなくなって、むしろかつての自分や同様の人々に怒りを感じるようになったって話を聞いて、ああ記号が文脈に勝ったんだなって感慨深くなりました。

脱線終わり。

 

 文脈は記号よりないがしろにされがちです。外から見えにくいから、どうしても伝わりにくくて、すぐに分かる記号ばかり優先されてしまいます。それに人間はどうしてもソトが気になる生き物ですから、ソトから強く見える記号を欲しがります。

 でもそんなに焦って強がって生きる必要ってあるんでしょうか。

 記号をたくさん持ってる人は強いです。強いですけれど、それは硬質な強さで、たぶんあんまり役に立たないんじゃないかなと思います。なんか酸っぱいブドウみたいですけれど、私はそう思うのです。

 私は記号より、ゆっくり立ち止まって文脈について考えられるような、そういう柔らかな強さが欲しいです。

 

 話を冒頭に戻します。他人に容易く「離婚しろ」っていうのは、つまり「お前らには大した文脈がないから」って言ってるようなことで、これってかなり失礼なことだと私は思うんです。逆に「そんな理由で離婚するな」ってのも同じです。例えば「キス顔が気に食わない」って理由で離婚したとして、そりゃありえんだろって思いがちですけど、でもたまたま記号化できたのが「キス顔が気に食わない」ってことだっただけで、その背景には積もりに積もった文脈があるかもしれません。だから軽々しく外野が「離婚しろ」とか「離婚するな」とは言えないのです。

 

 これ夫婦だけじゃなくて、親子関係とか、社会人としてとか、国民としてとか、でもいえることです。世の中には、ただそういう名前が付いたカテゴリに属してるからって、個々の事情を無視してしまう記号がいっぱいあります。これだけ記号優先の考え方が世の中に溢れているということは、みんな記号大好きの記号原理主義党なのだろうか。たしかに私も記号好きです。記号にはみりょくがあります。でも、あくまで文脈を生かすための記号なので、まず文脈が大事です。だから記号と文脈がバッティングしたら、文脈が勝つようにあらねばなりません。

 

 記号党の人は声がデカいですけれど、文脈が好きな人はめげないで頑張りましょうという話でした。あと、記号の魅力に負けて文脈をぶち壊さないようにしようという自戒でした。