ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

ラリった頭でおどりたい

 文学フリマのことを書こうと思ったらあんまり覚えてなくてびっくりした。言葉が出てこない。たぶん楽しすぎたからだ。楽しすぎることって細かく思い出せない。

 「ああ、楽しかったなー」っていう思いが、西日みたいにグイグイと心に入り込んきて、目が眩んでしまう。眩しくて、事細かなことを見ようとしても、上手く目が開かない。

 3分ゲーコンテストの制作していた時もそうだった。3分ゲーの記憶はあいまいだ。朝起きてPCを立ち上げたら、いつのまにか締切が来て、デスクトップにあったゲームを投稿した。

 寝食を忘れて、モクモクと作った。シルバーウィークを全て消費して、人間性も消費して、ただゲームだけを作った。私はゲームを作るマシンだった。私はマシンになりたい。それも人の役に立たないマシンになりたい。マシンは役に立ってないときが一番美しい。

 ゲームは役に立たないし、それをマシンのように作るのは私の理想だ。

 

 楽しくない記憶は事細かに思い出せる。そして、なぜそうなってしまったかを考える。理由を求める。暗い夜道で街灯を探しながら歩くように、一つ一つ辿って行ってしまう。

 

 でも降り注ぐ太陽光のような圧倒的な楽しさの前では、私はただ右往左往して、押し寄せる楽しさに溺れてしまう。だから、なぜ楽しかったのかも、どうして楽しかったのかもわからない。

 わからないから、「楽しいかどうか」は運だと考えている。どんなに楽しそうなことをしても、運が悪ければ楽しくないし、つまらなそうと思ったことでも運がいいと楽しくなる。

 楽しさとはそういうもんだと思っていた。これは大体あっているだろう。嫌なことのロジックを研究しても、嫌なことが勝手にやってくることと同じだ。

 だから楽しいことのロジックを研究しても、楽しいことがやってくる法則が分かるわけじゃない。仮に法則がわかっても、きっと楽しいことは増えない。これは法則通りだな、とわかるだけで、その法則に則ることは出来ない。

 

 でも楽しいことを研究してみようと思う。楽しいことを観察して、しっかりと細部まで味わおう。

 私は嫌なことばかりをずっと研究してきたので、バランスが悪くなっていると思う。だからバランスを正すために楽しいことも研究しよう。楽しいことに向き合おう。

 

 私はブログを書いて、ネットの友達にあって、イベントに出て行って楽しいことを経験した。でもその反面で、その楽しさから目を背けたい気持ちにもなった。楽しいことは眩しい。だから何も考えないで、眩しがって終わらせたい。そうして暗くて涼しいところに戻ってぼんやりしたい。私は夜中に豆電球でこっそりと本を読む子供だった。枕の下に隠した「エルマーとりゅう」。私はそれが親に見つかり叱られることをとても恐れた。その頃からあまり変わってない。

 

 痴漢の記事がいろんな人に読まれてる。感想ももらった。凄い人からレスポンスがあった。なので私は死にたくなってしまった。私は嬉しすぎることがあると死にたくなる。死にたくなるのは自身を守るためだ。私は評価を受けると、それ以上評価されるのが怖くなって全てを台無しにしてしまいたくなる。私は成長過程で悪目立ちが多く、「目立つ=怒られること」という意識が強く根付いていしまった。だから目立つ流れになると途端にその流れを絶ってしまいたくなる。

 その性格は治さなくてもいいとは思ってるけれど、というか治そうと思って治るものじゃないんだから仕方ないんだけど、性格は別として行動は変化させていきたい。承認や認知をきちんと受け止めていきたい。私も承認欲求はちゃんとあるし、それと上手く付き合っていくためにも行動を変えていく必要がある。承認欲求を抑圧して、その反動で他人を叩くようにはなりたくない。

 

 忍者の修行を思い出す。麻を植えて、その上を飛ぶ。麻は成長が早いから、どんどん越えなければならない高さが上がっていって、それに合わせていけば、いつの間にか塀も飛び越えられるということだ。

 私はアサが怖い。誰かの承認でぐんぐん伸びていくアサが怖い。やがてアサを超えられなくなるのが怖い。

 私はずっとヨルにいたい。それで、もうすっかりヨルにばかりいる。もう充分かもしれない。そろそろアサに挑んでもいいだろう。

 

 アサが怖いなら刈り取ればいい。

 

 私はアサを切り取ってワシワシと粉砕し、水パイプに入れてフワーッと吸う。私はラリラリになる。

 私はラリってしまうのが怖かった。楽しいことや嬉しいことで私の頭がラリったせいで、制御が利かなくなって、誰かに迷惑をかけるのが怖かった。私が普通に楽しいことをしていると、誰か彼かがさっとやってきて怒鳴っていく。そういう風に育ったので、私はラリってはいけないと思うようになった。どうせラリるならば、迷惑の掛からない一人遊びでいいと思った。

 私は誰かの承認でぐんぐんと伸びるアサを見ても「こんな程度の高さ」と貶してしまう。その陰で、口の端をゆがませているのに、それを肯定できない。

 アサを乗り越える努力も刻んで吸う余裕もなく、予定のない日曜日の朝の再放送番組を見ているように、ただ茫然と麻の伸びるさまを眺めている。そして、だんだんと大きくなるアサが怖くてこわくて死にたくなる。

 

 でも、もうやめなければならない。いや、やめなくてもいい。やめなくてもいいんだけれど、自然と大丈夫そうかな、と思えるようになったのでアサと向き合いたい。

 

 大丈夫。私ごときがラリっても社会はちゃんと叩き潰してくれる。その程度のラリさ具合に自分の頭をコントロール出来るようになった。今の私は、ラリっても迷惑をかけないと思う。そして、一緒に水パイプをフワーッとしてくれる友人もいる。私はラリっても大丈夫。

 

 このあいだ、ある人に「なんでブログはじめたの?」って聞かれて言葉を濁してしまった。なんといったか覚えてない。その理由は、言葉にするには眩しすぎる。でもその眩しさは、私の益体もない保身とプライドが作り出したおなべのフタである。 

 そんなもの投げ捨てて、光あふれるところに飛び出して、ラリった頭で踊りたい。