ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

女性の服にはポケットがない

 映画「マイ・インターン」でロバート・デニーロが「ハンカチは女性に貸すためにある」と言ってて、そういうのさらっと発言してサマになるのは、あなたとリチャード・ギアぐらいだろうと思いながら見ていました。

 男性が女性にハンカチを貸すって情緒的な意味でとても「絵になる」ので、デニーロの言っていることはごもっともなのですが、そういう部分ではなく機能的にもハンカチは男性が貸したほうがいいと思ってて、今日はそれについて書きます。

 

 女性の服ってポケットないんですよ。

 

 むかし女性に電話をしてなかなか出なかったり、出るまで時間がかかるってことが何度もあって、私は阿呆だったので「なんで電話にでるのが遅いのか」と聞いたんですけれど、そうしたら「服にポケットがないからケータイはカバンに入れてるので、すぐに電話に気付けない」と言われて衝撃を受けました。

 女性はみんな知っているし、男性も知っている人は知っている「当たり前」のことなのですが、その当たり前がわからない私のような人もいるのです。

 

 それでハンカチの話に戻しますと、女性はたぶんハンカチもカバンに入れている人がおおいので、いざっていうときにカバンをゴソゴソしないといけないじゃないですか、そういうときにさらっとハンカチ出せるのは「絵になる」だけじゃなく、時間短縮になって合理的だと思うんです。

 

 もちろんハンカチってトイレで使いますし、ふつうに考えて汚ったないものなので、互いの心理的距離とか考えても、誰も彼もに貸すというのはよくないです。使ったばっかりのちょっと濡れてるくしゃくしゃなハンカチを、好きでもない男に出されても嫌じゃないですか。

 だから貸す用のパリッと綺麗なハンカチと自分用を分けて持ち歩きつつ、気兼ねなく貸せる心理的距離を判断できるという、ハンパねぇ紳士スキルを身につけていない限りは安易にハンカチは貸してはいけないのだと思います。ようするにデニーロ以外はハンカチを貸せない。

 

 だからこのエントリで言いたいのは「男性は女性にハンカチを貸せるといい」ってことじゃなくて、男性と女性の間には日常に塗り込まれてる些細な差異というのがあって、それは当たり前だからお互いに何も考えないで現状を受け入れているけれど、互いに理解すればちょっと楽に物事を進められるんじゃないかってことです。

 

 もちろん機能的でユニセックスな服装が流行って、各々がポケットにハンカチを入れて自分の涙は自分で拭くのがいいと思うし、私はそうなりたいのですが、しかしそれは少々乱暴な話で、性的差異を追求したいという人をねじ伏せてまでやるべきことではないし、そもそもユニセックスな人の割合が現状はとても少ないので、いきなりそういうことから始めても現実に即してません。

 私は男性という自認が弱いのですが、それでも外から見たら立派に男性だろうし、私自身も気付かずに男性的に振舞っているでしょう。最近も他者から見た私の性別に無自覚なまま振舞って他人を無駄に傷つけました。だから自分が性的な側面から自由でいられると考えるのは、現実的なことではないのです。自認の問題ではなく他者との兼ね合いの問題です。もちろんユニセックスに付き合える人間関係もあると思うのですが、他人もそれが前提だと考えて自由に振舞うのは難しい事情を孕んでいます。もちろん本当はそれが理想の世界なのですが。

 

 性と風俗(性風俗の意味ではなく)は、社会からずっと与えられてきて染み付いてしまったものなので、「今日からユニセックスにします。みんなスタンドアローンで生きていこう」って言われてもきっと無理なのです。既得権益も絡んでるし。

 

 だから現実的には性差を理解するところから始めて、応急処置として互いの足りない部分を補い合うのがよいのだと思います。

 そうすればお互いに「こんな面倒くさいことをしてたのか」って分かってきて、異性にたいして敬意を払ったり気遣ったり出来るようになっていくのだと思います。

 いやでも個人的に私の男性としての生活って大して面倒くさくないので理解されなくていい気もする。だだそれは私が男性社会と意図的にデタッチメントしているからでしょう。積極的に男性社会に挑んでいる人は辛いし理解されたいと思っているのかもしれません。私のような男性社会と関わりたくない男性はだいぶ楽だと思います。疎外感や孤独とどう折り合いをつけるかっていうところさえ解決出来れば楽です。

 しかし、男性社会に参加しない男性の有り方は社会的成功と代償関係で、それに対して今まで私は社会的成功はいらないという姿勢でいたのですが、最近ちょっと考え方が変わってきて迷っています。これについては考えがまとまったら書きます。

 

 話を戻します。

 

 私はロバート・デニーロじゃないので女性にハンカチを貸せるような人間じゃないんですが、だからといって「どうせハンカチを貸せない人間だから女性のことなんてしらなくていい」と思わずに、「女性の服にはポケットがない」ってことを積極的に知っていきたいです。

 もちろん別に女性じゃなくても何でもよくて、自分と違う属性の人々の特性を知って行動できれば、楽に合理的に暮らせると思うので知りたいのです。私は楽がしたいし、他人にも楽になって欲しい。なので自分がしんどくない範囲で他人を知りたいです。大仰な言い方をすれば教養を身に着けたい。

 

 教養は何のためにあるのか。それは自分と他人を楽にさせて、ひいては社会全体を楽にさせるためです。でもそんなことを学校では誰も教えてくれなくて、だから私は教養を得る必要性が分からずに成人しました。もしかしたら教えてくれていた人もいるのかもしれないけれど、私には届いてなくて、その原因はかつての私が自分も他人もどうでもいいと思ってからです。

  教養はもちろん大切なのですが、まず自分と他人をちゃんと扱えるようにならないと意味がないのです。しかも、自他の理解が不明瞭なまま教養を覚えた人は下手をすると教養を悪用するのです。だからまず自分と他人についてちゃんと学べないと駄目なのです。

 もちろん多くの人は普通の学校生活で普通の自尊心と他尊心を培うのだと思います。でもいろいろな事情でそうできない人もいて、そういう人はまったく救い上げられないのが現状の教育です。

 かといって教育がこう変わればいいという話はできません。私には言える教養も行動する余力もないからです。

 

 ただ私がどうやってこれから生きてくかだけの問題です。