ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

マイノリティへの「理解」を表明する必要性について

 テレビをつけたら民放でポリアモリーについて取り上げられていて、それをコメンテーターが「理解できる」「理解できない」って札を上げるシーンがあった。視聴率のためにショー的に映える場面を入れたのだろう。

 テレビに限らないのだけれど、マイノリティーに対してマジョリティー側がいちいち「理解できる」「理解できない」って判断して表明する必要はあるのだろうか。

 どんなに常識から外れたことでも、関わる人間同士で合意が取れているならば、それでよくて、他者の理解はいらないし、いちいち知らせなくてもいい。

 

 合意。それだけが大切だ。倫理観や常識は合意のプロセスを簡略化するためにあるだけで、適合できない人は確実にいて、そういう人は疎外や孤独と戦いながら合意の取れる人を探している。

 だから、たまたま運よく一般的な倫理観をインストールできた側が、容易く「理解できる・できない」とジャッジしていいものではない。

 誰もが誰も、他者を裁くことなどできない。そんな完璧な人間はいない。司法は他者をジャッジできるけど、裁判官はただの司法の代弁者であって、その効力は司法の中での限定的なものだし、不備がそこら中にある。だから司法が全て正しいわけでもない。

 

 さまざまなマイノリティーが「理解して欲しい」と訴えて、マジョリティ側が「理解してるよ・できないよ」って答えるという構図自体がおかしいのだ。

 そもそも世の中が人間の有り様に無関心であればマイノリティーが生きづらさを感じることもなく「理解して」と訴える必要もない。もちろん、不便な部分や不都合はそれぞれあるから、補い合うために関心を持つことや法的な整備は必要だけれど、でも受け入れるか受け入れないかを一々表明する必要はない。

 だからマイノリティに理解のあるマジョリティが、なんだかちょっといい人というか、良識的な人としてメディアや世間で扱われるっていうのもおかしくて、それは当たり前であって欲しい。他者の人間の有り様をジャッジしないことが、常識になって欲しい。コンビニで列を守るってのと同じように。

 

 私の考えはシンプルだ。社会が誰かをジャッジすべきときは、それが合意のない搾取関係である場合のみだけでいい。

 だから痴漢は裁かなければならないし、DVは裁かなければならないし、自己判断力の弱い未成年からの搾取を裁かなければならないし、政治が民衆を搾取しているなら裁かなければならない。社会はただ暴力の防波堤であればいい。それ以外の非常識に社会が出てくる必要はない。お互いに「程よく」無関心でいたい。

 もちろん議論の余地がないというわけじゃない。

 ポリアモリーが合意上の関係といっても、経済的肉体的な不均衡があって、表面上は合意しているけれど本心はしてないケースもあるかもしれない。そういう面をフォローするために、司法制度で受け皿を作っておくことは必要だろう。

 それに経済的に自立しやすい男性側がポリアモリーを主張するのと、女性が主張するのでは社会的背景が違ってくるので、そこについても議論する意義はあるだろう。

 また子供が出来たときに負担する費用をどのように分配するのか、といった議論も必要だ。

 そういった「存在することが前提で、その上で発生する問題」についての議論や意見交換は大いにすべきだろう。

 社会や世間が考えるのはそういう部分だけでよくて、まず「理解できる・できない」ありきの議論は消え去って欲しい。理解を個々の胸の内に持つのは構わないけれど、それをいちいち表明することはなくなってほしい。

 「理解できる・できない」の議論するのは時間の無駄だ。マジョリティがいくら理解や不理解を示しても、そういう人がいる事実は変わらない。ただ存在の否定が顕在化し、ジャッジされた側が無駄に傷つくだけである。それに何の意味があるのだろうか。

 LGBTの理解は少しずつ進んでいる。最近でも同性愛者に暴言を吐いた議員が炎上して辞職した。でも「ただ理解されているだけ」だ。

 理解されたとしても、その先にはマジョリティと同じような、例えば結婚や就職のような、当たり前の人生の問題がある。それもマジョリティとはちょっと違う事情を含んでいるから、そこについての議論こそが本当に必要なものだ。

 だから「理解する・しない」は脇に置いておいて、その先の議論をしたほうが建設的だし、そこまでする気がない人はいちいちマイノリティに言及してはいけない。時間と精神力の無駄だ。

 

 昨日のエントリでも書いたけれど、私は楽に生きたいし、他人にも楽になって欲しい。だから、まず存在を認めて、その存在と自分が関わりたいと思ったら、楽に生きていくための議論をして行動するということをしていきたい。それ以外は知識として蓄積し、自分の中で判断はつけるだろうけれど、いちいち表明しないようにしたい。

 

 人間の有り様についてジャッジすることは知恵のリンゴのように誘惑的だ。わたしもつい齧りたくなる。

 なぜなら裁く対象が人間で裁く者も人間ならば、自分の人間性を自在に肯定したり否定したりできるからだ。それは被告人が裁判官をするようなことだ。その行為がもたらす万能感は、とても気持ちがいいし、楽しいだろう。でも、代償に誰かが傷つく。

 

 それに世界には語るべきことがたくさんあって、なのに人生はとっても短い。だから、どうでもいいぐらい愛しい他人について、いちいちジャッジしている暇なんて本当はないはずなんだ。

 私は、まどろむネコのヒゲが扇風機の風でフワフワと揺れていることや、池に石を投げ込むとつられて一斉に飛び込むカエル達について語りたい。私は忙しい。だから自分と他人を楽にできること以外では、人間の有り様について語らないように気を付けたい。