ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

自分の立場に気付くこと

 私は自分の立場に無頓着です。自分が他者からどのように見られていて、どのように判断されているのかがわかりません。それは、誰かと人間関係を結ぼうとするならば、とても罪深いことなのだと知りました。自分や相手の状況や心情を100%の精度で推し量ることは出来なくても、あるていどの相場のようなものがあって、それに照らし合わせて考えないといけないのです。そうしないと無自覚に他人を傷つけるやり取りをしてしまいます。常識というのはそのためにあるのだと知りました。

 私はその場で求められていることに応じようとしてしまいます。 先を見通せないからです。ただその瞬間瞬間で相手が求めているかもしれない、と思うことを推察して行動します。私は宴会の席で料理を取り分けます。その行動に深い考えはなくて、ただ料理が取り分けられるのが求められていることだから、という安易な考えです。その安易な行動原理は、ときに最悪の結果になるのだと分かりました。言葉や状況で合意が取れているからといって、それに沿ってはいけないのです。その後に起こることについて考えなければならないのです。でもいつもそれぐらい深くは考えられないから、常識というのが必要なのだと思います。

 そして常識は健全な人間関係の上で、情報を共有して作られているのだと分かりました。

 私は小さいころから何か困ったことがあっても、ほとんど自分で考えて行動してきました。つらいことや悲しいこと、楽しいことや嬉しいことがあっても、それを誰かに共有してきませんでした。私は小さいころから、ずっと聞き役でした。話すことはあっても、自分の内面にかかわる深い会話ではなく表面的な部分に留まっていました。友人や先生はもとより、親にすら深い自己開示はしませんでした。それで事足りていたので必要がないと思っていました。その状況が辛いとも思いませんでした。

 それは可哀想だとある人に言われました。その人は短い間でしたが、私に色々なことを教えてくれました。そのお返しがひどく傷つけただけという私の愚かしさを悔いています。

 私は色々なものを欠けたまま育ちました。

 欠けたまま育ちすぎて、その欠けた部分を自らの生命力で補ってしまいました。

 私は「自分が辛い」という気持ちがありません。いや、あるのですけれど、それが起こった瞬間から脳内から変なモノが出てきて感情を上書きしてしまいます。たまに無性に悲しくなってなくことがありますが、その原因が分からないのです。もしかしたら、原因を仕舞い込んで、あとから感情だけが湧いてくるのかもしれません。

 そうやって育ったので、辛い時にやむにやまれず誰かを求めるという感覚がありません。なぜそうなったのか。原因を考えても仕方がありません。怒りや嫉妬心がないのも、そこに理由があるのかもしれません。

 ただ私は人が辛いと悲しいという気持ちがあります。でもその気持ちもやっと20歳を超えたあたりから芽生えたものです。だからまだ上手く付き合えていません。

 私は人を傷つけました。傷つけたことがとても辛いと感じました。その感情を教訓にして、これからの糧にしていきたいです。傷つけてしまった人にたいしては私はもう何もできないし、謝っても謝りきれません。きっと相手ももう私と接触すること自体が嫌でしょう。本当に取り返しのつかないことをしました。

 

 私には常識がありません。そのせいで人間関係を求めると人を傷つけます。本来であれば学生のときに経験して失敗して学ぶべきことをしてこなかったのです。それを学びたいと思って友達が欲しいと思ったのですが、常識的な友達の定義すら分かっていない人間であることが分かりました。

 学びたいからといって、大人になってやりだしてはいけないのかもしれません。大人同士の場合は問題が大きくなります。私は人間関係を求めてはいけないのかもしれません。求めるとしても、より慎重に思慮深くあらねばありません。

 

 それを教えてくれたあの人を傷つけてしまったことが後悔です。