ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

自他の区別がついていない

 自他の区別がついていないことは何度か自覚しているのだけれど、それからどう脱却すればいいのか分からない。

 

 私は人を嫌いになったり怒ったりできない。

 それは相手や自分の現状とそこから延びる様々な可能性について考えてしまうからだ。怒りや嫌悪のような激しい感情を表すリソースを、その可能性の考慮に使ってしまっているのかもしれない。

 ある行動を取る人を「嫌う、怒る、排除する」という判断に至るための明確な線引きがない。全ての行動は様々な可能性への端であるとしか考えていないからだ。私はその行動の先に、まだまだ最良の可能性があるのではないかと常に考えてしまう。だから嫌ったり怒って、誰かを排除することが出来ない。

 

 私は学生のころに、生徒会長・不良・オタクの三人と友人であった。私は昔から周囲に与えられた自分の立場に無頓着であったため、スクールカーストというものが良く分からず、そういうことを考えずに友人を作っていた。その3人は3人とも面白かったので仲良くしたのだけれど、3人同士はあまり相互理解しなかった。だから私は互いを跨ぐような話題は極力避けた。電車の話を延々とされて面白かったという話を不良にしたところ、あからさまに馬鹿にしていたので、話をしてはいけないのだと学んだ。その後、3人ともと疎遠になった。おそらく3人ともに「八方美人」であると思われたのだろう。それぞれが所属するグループには、それぞれの価値観に基づいた優劣感があり、それを平然と跨いでいる人間は信頼できなかったのだろう。

 

 それから私は友人関係を作ることがなかなかできなくなった。友人と会話をしていると、その意見の別のルートや反証がすぐ思い浮かんでしまうため、それを馬鹿正直に表明していたからだ。他人から見たらただの逆ハリ反論クソ野郎であった。私は会話とは、価値観の合意を取るための側面もあるということをだいぶ後になってから知った。価値観を疑う姿勢を他人の前で示す私は、会話したくない人物だったのだろう。

 

 知ってから私は、すべての意見をいったん飲み込んで、その場では同意してから、あとで考え直すということをするようになった。そうすると波風が立たないのでいい。私は感情をぶつけられると疲れてしまうので、それをするのは自衛でもあった。

 しかし、それはそれで問題があって、いったん飲み込んだあとで考えて意見が変わると、あのときに同意したのになぜ実践しないのだと怒られたり嫌われたりしてしまう。私が考えているよりも世間の合意の継続性は強い。

 

 一貫性、継続性、整合性のようなものはとても重要なことのように扱われている。私はそれらにあまり興味がなく、意見や考えはコロコロ変わっていいと思っていて、そのためには自由に考えることを阻害する常識のようなものはなるべく排除したいという欲求がある。

 しかし、常識を排除してしまうことは、常識にもとづいて生きている人たちを傷つけるのだということも分かっている。私が外で誰かと交流するのならば、常識をインストールしなければいけない。

 

 企業のコンプライアンスのように考えればいいよ、とアドバイスをしてくれた人がいた。しかし私は企業のコンプライアンスすら正しいのか疑ってしまう。私はどんなことも疑って疑って考えを変えて覆して、ずっと思考を巡らせているうちに締切がきたり、感情的な選択肢に押し流されて最悪の結果になってしまったりする。

 

 なにか簡便に使えて社会的にも認められやすい常識を信じたいとは思うのだけれど、どうしたらそれが出来るのか知りたい。常識をインストールして消滅する可能性について、切り捨てられる心が欲しい。常識は人を守りもするが傷付けもする。疑わなくてもよい常識が分からない。常識にもとづいて切り捨ててもよい閾値が分かるような、聡明な頭脳が欲しかった。

 

 また他者にたいして怒りや嫌悪を抱かないのは、主観的に物事を捉えられないから、という指摘も受けた。客観的に考えすぎるため、他人も自分も盤上のコマのように捉えているらしい。たしかにその感覚はある。それは傲慢な考えだ、と言われた。

 傲慢よりかは、臆病なのだろう。たぶん、そうすることで弱々しい主観の自分を守ろうとしているのだ。私は主観的な欲求や感情を把握して、それにたいして的確なアプローチが出来ない。

 主観的な欲求や感情を掘り下げることが出来れば、可能性の消失を納得できるかもしれない。強固な主観があれば、ある程度の客観性の不備は殺せるだろう。

 いくら客観的な分析に乗っ取ろうが、最終的には主観的な決断を下す必要があって、その部分が私は弱いのだろう。私は常に主観を疑っているし、主観の判断を保留する。私は主観を信じれる力が欲しい。どうしたらいいのか。

 

 主観が弱いのは、成功体験と被害を受けた経験が少ないからだと思う。成功体験をして、それが感情に根付けば、自分が快だと思う方向性が定まっていく。また被害を受けた経験が多ければ、不快に思う方向が定まっていく。そうやって人生経験を積んで、主観が形作られていく。

 私は恵まれすぎていて恵まれていないのだろう。成功も被害もなく、ただ薄く押し延べられた人生があるだけだ。でもまあ、そういう人生だったのだから仕方がない。これからの人生はどうなるのだろうか。

 とりあえず強い主観を手に入れるまでは、親密な人間関係を作るのは難しいと思うので、それだけをセーブして、あとは自由にやっていこうと思う。同じ価値観の人が見つかれば仲良くしたいが、なかなかいないのかもしれない。