ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

人から5分だけ奪う時間泥棒になりたい

 小さいころ、時間ドロボウが怖かった。モモの時間どろぼうも怖かったし、それをモチーフにした絵本もあってそれも怖かった。でも、むさぼるように何度も読んだ。

 私はシーケンスが怖かったのだろう。朝が来て夜が来て、覚醒が来て眠りが来て、生が来て死が来て、そのすべてが怖かった。私は眠るのが怖くて夜遅くまで起きている子供だった。と同時に朝起きるのが嫌で、ギリギリまで寝ている子供だった。

 私は時間という概念をよく理解していなかったけれど、それが日々消費されていることをしっていて、その時間によって私がどこかに運ばれていくのだという実感だけはあった。それがとても怖くてワクワクした。

 いま好きなものも、いま嫌いなものも、すべてが変わってしまうのだということが恐ろしかったし、それが心の底から救いであるとも思ってしまった。

 私は昨日仲良くなった子とは全く別な子と話すのが好きだった。それと同時に、昨日優しかった父親が、今日は酒によって私を怒鳴る姿が恐ろしかった。けれど、今日が去れば明日は楽しい父親がいると常に信じていた。

 変化は恐怖と快楽である。私は変化を恐れながらも求めた。

 

 だから私は時間について正しく考えられないのだろう。他人をいらだたせるほどテンポがゆっくりなときもあれば、他人にドン引きされるぐらいサクサクと物事を進めてしまうことがある。

 社会が求める適切で順当な時間の流れが分からない。私は三日でゲームを一本作ることもあれば、1年かけてもゴミしかできないときがある。私にとって時間は均一な尺度を持たない。それは変化を嫌い過ぎていて、また愛しすぎているからだろう。

 変化しないものには時間は流れない。時間どろぼうは、変化を強制する救いの神であり、また恐ろしい悪魔であった。私はそれを未開の地の民のように恐れ敬っているのだろう。

 

 私はエンターテイメントを仕事にしている。私はソーシャルゲームを作り、他人の時間とお金を奪って生きている。そのことに私は深い罪悪と喜びを感じている。

 

 ただ、その境遇はあくまで他人から用意されたものであり、私のスキルとちょっとした自発的な意欲で保たれているだけのものだ。私が明日から「仕事めんどくさい」と心の底から思えば崩れてしまうことだし、あるいは雇い主が「コイツのスキルはいらないから切る」と言えば終わってしまう。一応、日本はそういうのに優しいので切られる可能性は低いけれど、それはそれで不健全だと思ってる。日本の雇用のいびつさは、ひとえに「正社員」の重さにある。

 

 話が脱線している。

 

 2355というNHKの番組がある。平日の23:55から始まる5分だけの番組だ。細野晴臣がオープニングをやっているという、NHKによくある無駄なところにお金を掛けている系の番組なのだけれど、まあそれがたいして面白くはないけれど、死ぬほど暇なときにふっとテレビをつけて放送されていると、なんとなく見てしまうし、その結果で心が緩くなる。たいして面白くもないのに、不思議だ。

 

 私はそういう存在になりたいのかもしれない。誰かを強烈にひきつけて、大量にリソースを奪うことが怖いし苦しい。私もただ一人の人に大量のリソースを裂きたくない。お互いゆるい感じて求めたり提供したりしたい。その甘えた姿勢から脱却できない限り、私は人から大量のリソースを受け取るわけにはいかない。

 私は他人が暇なときに「5分ぐらい」消費してくれて、その対価で生きていけるだけのものを貰って生きていければいいな、なんてゆるいことを考えている。

 ああ、とっても、社会不適合者です。

 

追記

私が3分ゲーというコンセプトに惹かれたのも、こういう理由があったからだと思います。