ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

雪ゆきて、寒波

 今日は雪が降った。東京に雪が降ると、交通網がいとも簡単に麻痺してしまう。私は麻痺耐性が高いので運良く逃れたが、それでも到着が少し遅れた。会社に着くとフロアの5分の1程度しか埋まっていない。まるで遅くまで残業したような日の光景に思えて、時間の感覚が一瞬だけおかしくなった。

 

 東京の交通網は雪にとても弱い。人々を巨人の心臓のように力強く各所へ送り出しているけれど、この程度のちょっとした雪で簡単に動脈硬化を起こしてしまう。「この程度」というのは、私が雪のよく降る地域出身だからだろう。雪に対する常識が違うのだ。ようするに偏見である。

 たくさんの人が集まり、たいていのものは揃ってしまうような、一見完璧に見える状態の都市でも、やはり弱点はある。もちろん、雪でも止まらないような対策を施すことはできるだろう。でも年に一回あるかないかの事態に備えてコストを払うというのは合理的ではない。非合理なところにコストをかけるよりも、普段から使う部分にコストをかけたほうがトータルでの満足度はあがる。だから、あえて雪に弱いままなのだろう。でもこれが雪国の鉄道だったらそうはいかない。置かれた状況によってクリティカルな問題は変わる。つまり、どんなに欠けていないように見えても、それはたまたま欠けていない側面だけを見せられる、見ている状況であるというだけと言える。

 

 都内の電車は優秀だ。時間に遅れないし、本数も多く、また場所も網羅されている。けれど、四次元ポケットから出てくる「どこでもドア」のように「どこでも」「いつでも」使えるものではない。自宅の前には来てくれないし、深夜はやってないし、雪が降ったら止まってしまう。

 どこでもドアならそんなことはないけれど、でも映画のときは大抵壊れているから万全とはいいがたい。電車は雪に弱く、どこでもドアは映画に弱い。どんなに優れたものにも弱点はあるのだろう。

 いや、弱点ではないか。ただ使う側が弱点だと思っているだけで、電車もドアもただあるようにあって機能するように機能しているだけだ。運休や故障も含めて、ただの状態である。それを弱点だと判断するのは使用者の意識だ。

 

 弱さも強さも主観でしかない。競技の世界で限定的な強弱を決められる以外は、すべて主観的な強弱の判断だ。大多数の主観が集まって弱者や強者を決めるけれど、それはあくまで主観の集合でしかないから、その集団と仲良くしなければ強弱とは無関係でいられる。

 

 私は、弱者・強者の問題を「弱者だから」「強者だから」という意識で解決してはいけないと考えている。弱者であることを条件として支援するならば、問題の本質は解決しない。

 弱者だからではなくて「困っている」から助けなければいけない。そうしないと、弱者は他人から弱者に見えるような振る舞い続けないと支援を受けられないという構図が定着してしまうし、強者に見える弱者は支援されないことになってしまう。

 そもそも困っているならば強者であっても助けられるべきだ。なぜなら主観的には強く見えても、実際は雪が降っただけで停止してしまうような弱々しい部分を持っている可能性があるからだ。

 

 もちろん、私がそう考えているというだけのはなしで、世の中では「弱者アピール」をしたほうが支援を受けやすいことも事実だから、止むに止まれぬ事情があるならば「弱者を助けたい」という人々の心理を大いに利用したほうがよいだろう。私はその上で、弱者アピールが得意ではない人も支援されるようになれば理想的だし、もっといえば弱者と認定されても「困ってない」人が外からワーワー言われないようになると楽だなと思う。

 

 世の中で弱者やマイノリティと言われている人でも、困っている人と困っていない人がいる。それに困っていることも人それぞれだ。ある人にとっては「困ったこと」に映るものが、別の人にとっては「どうでもいいこと」だったり、むしろ「チャンス」だったりするので、一概に困りごとだと考えて価値観を押し付けてもいけない。

 

 他人からは困っていることは見えない。見えていると思えるのは、たまたま他の人と「困るポイント」が重なっているか、ただ「困ったこと」を押し付けているだけだ。

 

 人には出来ることと出来ないことがあるけれど、出来ないことと「困ること」は別だし、出来るからといって「困らない」わけでもない。出来なくても困らない人に、「それは困ったことだよ」と伝えたとしてもピンとこないだろう。ピンとこないならまだしも、言われたことによって「自分は困っているんだ」と思うようになってしまうかもしれない。それは世界に「困りごと」を一つ増やしたことになる。

 あるいは毎日テキパキと出来る人が実際のところは無理をしていて「困っている」かもしれない。バリバリ働けるから大丈夫だろうなんてことはない。優秀だと喧伝される日本の鉄道だって止まるときは止まるし、普段から優秀であるために払うコストは膨大だ。けれど、実際に止まると普段が優秀すぎるので反動で非難されてしまう。これを人間に置き換えたら、なかなか「困ったこと」じゃないだろうか。

 

 私はとくに「困ったこと」がない。他人からみたらあるのかもしれないが自覚がない。 

 そのせいか私は、他人が困っていることもあまりわからない。表面的に困っていることはわかるけれど、それは例えば、道に散らばってしまった書類を拾うのを手伝うとか、白杖を持っている人が戸惑ってたら助けるとか、電車で席を譲るとかそういうことでしかない。誰にでも平等に起こりうる「困ったこと」なので、自分に余裕があるときは助けるが、それは助けるなんて大仰なことじゃなくて、ただお互い様に行う挨拶のようなものだ。

 

 けれど、挨拶程度の手助けより先に踏み入って「この人はこういう部分で困っているだろう」という推察をして行動することが私には出来ない。たとえば発達障害者は対人スキルが低くて、日常生活や社会参画に困っているだろうから、気を使おうといった発想がない。対人スキルが低くなくて社会にうまく参画出来てる発達障害者もいっぱいいるだろうし、たとえそうでなくても本人が困っているかどうかはわからない。

 

 世の中には障害者以外にも「困っているだろう」とレッテルを貼られた人がたくさんいるけれど、その人たちが本当に困っているかはやっぱり本人に聞いてみないとわからないんじゃないかと思ってる。どうように「困ってない」とレッテルを貼られている人だって、話してみたらボロボロと困ったことが出てくるかもしれない。

 

 一人一人とじっくり話し合ってみないと、困っているかどうかがわからない。その上、対話をしても理解できない「困りごと」もある。もちろん、理解する必要はなくて、ただ「困っている」という相手の意見を認めればいいだけなのだけれど。

 認めるだけじゃなくて、実際に「助ける」なら理解は必要だが、そうでないなら認めるだけでいい。

 そうすれば何も聞かないで判断するよりは、ずっとしっかり考えることができる。

 

 けれど、対話が出来ない人もいるし、対話をしても偽装している可能性があるから対話だけしていればいいわけでもなくて難しい。それは自分自身との対話も含めて、そうだ。

 

 私はワタシとよく話すが、私と話すワタシは飄々として「特に困ったことはないよ」と言っている。でもそのワタシの背中には「困っている私」が隠されているのかもしれない。いないのかもしれない。どっちでもいいのだけれど、ワタシが嘘をついているのならば、正直に話してくれるまで気長に待とうと思う。それから解決しようとしたって遅くないだろうし、もう手遅れになっていたなら、それはそれで諦めがつく。どっちだっていい。

 ただ、困りごとを積極的に解決しても、また新しい困りごとが降ってくるだけなので、困りごとがないと私に思わせてくれるワタシをまだしばらく信じていようと思います。むかしは信じてなくて、ことあるごとに疑っていたけれど、けっこう疲れるので、今はたまにしか疑わないことにしています。

 たまに疑うのはいいです。ワタシの主張の強度や不備が補われるので。友達作りたいってのも、それが理由です。「孤独でも困らないじゃーん」っていうワタシにちょっと揺さぶりをかけたい。でも根っこではワタシを信じているので、孤独でも困らないと思っている。

 

 ただ私は、私の困っていることを深く知りたいし、深く知って自分の困っていることを解決出来たら、私が仲良くしたい人の困ったことも解決出来たらいいなと思っている。そこまで行けたら、とても素敵だ。

 

 寒い日が続いている。喉がイガイガして咳が出るので、炭水化物を解禁した。風邪をひいたら困るのでエネルギー効率のいいものもをなるべく取っておきたい。多少は太るだろうが風邪を引くよりはマシだ。精神の困ったことはわからないけれど、体の困ったことはけっこうわかるようになってきたので、ちゃんと困らないように対策をする。体とはちょっとずつ対話できるようになったのでよかったと思う。

 今日は雪が降った。東京に雪が降ると、交通網がいとも簡単に麻痺してしまう。私は麻痺耐性が高いので運良く逃れたが、それでも到着が少し遅れた。会社に着くとフロアの5分の1程度しか埋まっていない。まるで遅くまで残業したような日の光景に思えて、時間の感覚が一瞬だけおかしくなった。

 

 東京の交通網は雪にとても弱い。人々を巨人の心臓のように力強く各所へ送り出しているけれど、この程度のちょっとした雪で簡単に動脈硬化を起こしてしまう。「この程度」というのは、私が雪のよく降る地域出身だからだろう。雪に対する常識が違うのだ。ようするに偏見である。

 たくさんの人が集まり、たいていのものは揃ってしまうような、一見完璧に見える状態の都市でも、やはり弱点はある。もちろん、雪でも止まらないような対策を施すことはできるだろう。でも年に一回あるかないかの事態に備えてコストを払うというのは合理的ではない。非合理なところにコストをかけるよりも、普段から使う部分にコストをかけたほうがトータルでの満足度はあがる。だから、あえて雪に弱いままなのだろう。でもこれが雪国の鉄道だったらそうはいかない。置かれた状況によってクリティカルな問題は変わる。つまり、どんなに欠けていないように見えても、それはたまたま欠けていない側面だけを見せられる、見ている状況であるというだけと言える。

 

 都内の電車は優秀だ。時間に遅れないし、本数も多く、また場所も網羅されている。けれど、四次元ポケットから出てくる「どこでもドア」のように「どこでも」「いつでも」使えるものではない。自宅の前には来てくれないし、深夜はやってないし、雪が降ったら止まってしまう。

 どこでもドアならそんなことはないけれど、でも映画のときは大抵壊れているから万全とはいいがたい。電車は雪に弱く、どこでもドアは映画に弱い。どんなに優れたものにも弱点はあるのだろう。

 いや、弱点ではないか。ただ使う側が弱点だと思っているだけで、電車もドアもただあるようにあって機能するように機能しているだけだ。運休や故障も含めて、ただの状態である。それを弱点だと判断するのは使用者の意識だ。

 

 弱さも強さも主観でしかない。競技の世界で限定的な強弱を決められる以外は、すべて主観的な強弱の判断だ。大多数の主観が集まって弱者や強者を決めるけれど、それはあくまで主観の集合でしかないから、その集団と仲良くしなければ強弱とは無関係でいられる。

 

 私は、弱者・強者の問題を「弱者だから」「強者だから」という意識で解決してはいけないと考えている。弱者であることを条件として支援するならば、問題の本質は解決しない。

 弱者だからではなくて「困っている」から助けなければいけない。そうしないと、弱者は他人から弱者に見えるような振る舞い続けないと支援を受けられないという構図が定着してしまうし、強者に見える弱者は支援されないことになってしまう。

 そもそも困っているならば強者であっても助けられるべきだ。なぜなら主観的には強く見えても、実際は雪が降っただけで停止してしまうような弱々しい部分を持っている可能性があるからだ。

 

 もちろん、私がそう考えているというだけのはなしで、世の中では「弱者アピール」をしたほうが支援を受けやすいことも事実だから、止むに止まれぬ事情があるならば「弱者を助けたい」という人々の心理を大いに利用したほうがよいだろう。私はその上で、弱者アピールが得意ではない人も支援されるようになれば理想的だし、もっといえば弱者と認定されても「困ってない」人が外からワーワー言われないようになると楽だなと思う。

 

 世の中で弱者やマイノリティと言われている人でも、困っている人と困っていない人がいる。それに困っていることも人それぞれだ。ある人にとっては「困ったこと」に映るものが、別の人にとっては「どうでもいいこと」だったり、むしろ「チャンス」だったりするので、一概に困りごとだと考えて価値観を押し付けてもいけない。

 

 他人からは困っていることは見えない。見えていると思えるのは、たまたま他の人と「困るポイント」が重なっているか、ただ「困ったこと」を押し付けているだけだ。

 

 人には出来ることと出来ないことがあるけれど、出来ないことと「困ること」は別だし、出来るからといって「困らない」わけでもない。出来なくても困らない人に、「それは困ったことだよ」と伝えたとしてもピンとこないだろう。ピンとこないならまだしも、言われたことによって「自分は困っているんだ」と思うようになってしまうかもしれない。それは世界に「困りごと」を一つ増やしたことになる。

 あるいは毎日テキパキと出来る人が実際のところは無理をしていて「困っている」かもしれない。バリバリ働けるから大丈夫だろうなんてことはない。優秀だと喧伝される日本の鉄道だって止まるときは止まるし、普段から優秀であるために払うコストは膨大だ。けれど、実際に止まると普段が優秀すぎるので反動で非難されてしまう。これを人間に置き換えたら、なかなか「困ったこと」じゃないだろうか。

 

 私はとくに「困ったこと」がない。他人からみたらあるのかもしれないが自覚がない。 

 そのせいか私は、他人が困っていることもあまりわからない。表面的に困っていることはわかるけれど、それは例えば、道に散らばってしまった書類を拾うのを手伝うとか、白杖を持っている人が戸惑ってたら助けるとか、電車で席を譲るとかそういうことでしかない。誰にでも平等に起こりうる「困ったこと」なので、自分に余裕があるときは助けるが、それは助けるなんて大仰なことじゃなくて、ただお互い様に行う挨拶のようなものだ。

 

 けれど、挨拶程度の手助けより先に踏み入って「この人はこういう部分で困っているだろう」という推察をして行動することが私には出来ない。たとえば発達障害者は対人スキルが低くて、日常生活や社会参画に困っているだろうから、気を使おうといった発想がない。対人スキルが低くなくて社会にうまく参画出来てる発達障害者もいっぱいいるだろうし、たとえそうでなくても本人が困っているかどうかはわからない。

 

 世の中には障害者以外にも「困っているだろう」とレッテルを貼られた人がたくさんいるけれど、その人たちが本当に困っているかはやっぱり本人に聞いてみないとわからないんじゃないかと思ってる。どうように「困ってない」とレッテルを貼られている人だって、話してみたらボロボロと困ったことが出てくるかもしれない。

 

 一人一人とじっくり話し合ってみないと、困っているかどうかがわからない。その上、対話をしても理解できない「困りごと」もある。もちろん、理解する必要はなくて、ただ「困っている」という相手の意見を認めればいいだけなのだけれど。

 認めるだけじゃなくて、実際に「助ける」なら理解は必要だが、そうでないなら認めるだけでいい。

 そうすれば何も聞かないで判断するよりは、ずっとしっかり考えることができる。

 

 けれど、対話が出来ない人もいるし、対話をしても偽装している可能性があるから対話だけしていればいいわけでもなくて難しい。それは自分自身との対話も含めて、そうだ。

 

 私はワタシとよく話すが、私と話すワタシは飄々として「特に困ったことはないよ」と言っている。でもそのワタシの背中には「困っている私」が隠されているのかもしれない。いないのかもしれない。どっちでもいいのだけれど、ワタシが嘘をついているのならば、正直に話してくれるまで気長に待とうと思う。それから解決しようとしたって遅くないだろうし、もう手遅れになっていたなら、それはそれで諦めがつく。どっちだっていい。

 ただ、困りごとを積極的に解決しても、また新しい困りごとが降ってくるだけなので、困りごとがないと私に思わせてくれるワタシをまだしばらく信じていようと思います。むかしは信じてなくて、ことあるごとに疑っていたけれど、けっこう疲れるので、今はたまにしか疑わないことにしています。

 たまに疑うのはいいです。ワタシの主張の強度や不備が補われるので。友達作りたいってのも、それが理由です。「孤独でも困らないじゃーん」っていうワタシにちょっと揺さぶりをかけたい。でも根っこではワタシを信じているので、孤独でも困らないと思っている。

 

 ただ私は、私の困っていることを深く知りたいし、深く知って自分の困っていることを解決出来たら、私が仲良くしたい人の困ったことも解決出来たらいいなと思っている。そこまで行けたら、とても素敵だ。

 

 寒い日が続いている。喉がイガイガして咳が出るので、炭水化物を解禁した。風邪をひいたら困るのでエネルギー効率のいいものもをなるべく取っておきたい。多少は太るだろうが風邪を引くよりはマシだ。精神の困ったことはわからないけれど、体の困ったことはけっこうわかるようになってきたので、ちゃんと困らないように対策をする。体とはちょっとずつ対話できるようになったのでよかったと思う。