ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

穴だらけのコーヒーフィルター

 最近、SMAPが謝罪したという話題がタイムラインに流れてて、普段はあまりツイッターを見ないし、トレンドもニューヨークにしてる私でも、さすがに情報が入ってきました。トレンドをニューヨークにすると楽しいですよ。だいたい、NBANFLかテレビ番組の話しかしてません。日本のトレンドみたいにツイッターだけの文化のようなのは、あまりないですね。ツイッターの浸透してる層が日本とは違うのだろうか。

 

 それで多くの人に共有されるネタに対する言及って、ネタの仔細や正しい輪郭はどうでもよくて、ただ発言者が普段から思ってることに着地させるためだけの道具みたいになっていると思いました。例えばスマップの話だと、人によってはパワハラだというし、人によってはテレビの腐敗だというし、人によってはジャニーズの横暴が……とか言っています。

 

 みんながネタにできて抽象化しやすい問題というのは、自然とその人が普段から思っていることが滲み出てくるようで面白いです。たとえばパワハラを問題視していたり、実際にパワハラにあっている人などは、そこに注目して言及するのでしょう。

 自分から話題をチョイスして自由に発言を構築していけるなら、自分の言いたいことをある程度は自覚しながらできますが、時事ネタや門外漢のネタに無理やり食いつこうとすると、いくら気をつけても自分が知っていて普段から考えている方向に引っ張っていってしまうのでしょう。そういうときこそが発言者の本心や素の考えが見えます。

 

 普段は鋭いコメントをする人がただの感情論レベルのことを言ったり、いい本を書いている人がツイッターで軽率な発言をして炎上する、なんてのもそこに理由があるのだと思います。

 

 ツイッターでもブログでもなんでもいいですが、言葉を使う表現方法を選ぶ人は、発言することで社会に自分の価値を問います。とうぜん、私もそうです。なので、自分の社会的価値を高めたいと思う人ほど、発言するチャンスがあれば積極的に関わろうとします。

 

 影響力のある人が下手に発言するとマイナスになるので、それを避けたいという打算を持てばチャンスがあっても発言を控えますが、打算はあくまで打算なので「いける」と思っても失敗することや、そもそも影響力などないと考えている人は容易く時事ネタに飛びついて自分の考えを表明します。

 

 私はそういった風潮はいいと思っていて、影響力のある人が練度の低い発言をすることで、本心を世の中にぶち撒けやすくなっていれば、社会はそれを監視するだけである程度デトックスができるでしょう。政治家みんながツイッターの発言に関してリテラシーマネージャーのような人をつけてしまって、品行方正な発言しかしないようになったら、水面下で偏った思想の実現を狙っているときに面倒なので、どんどん失言してもらって失脚してもらったほうが社会的にはよいです。

 そして影響力のない市井の人の発言でも「他者はこう考えているのか」というサンプルケースになって、私がそれを多方から集めることで自分の考えの練度を上げることができるのでありがたいです。

 

 あまり考えを深めずに飛びついた発言というのは、いわば「穴の空いたコーヒーフィルター」です。止めているところは止めていますが、ある部分は自分の都合のいいようにドロドロと垂れ流れています。

 私はその穴の空いた部分を補うような意見を探してフィルターの上に重ねます。たくさんの人の意見を重ねることで穴のない綺麗なフィルターができてきます。私はなるべく穴のないフィルターが好きです。

 

 もちろん、穴のないフィルターが出来上がるまで発言するな、というわけではありません。そもそも穴のないフィルターなんて幻想で、どこかには穴があります。ただ比較的穴が少ないとか、ある人にとっては穴がないように見えるとか、その程度の話です。

 だからそんなに穴がないことに拘る必要はなくて、もちろん穴があるまま発言するリスクはありますが、そのリスクを背負ったり、発生した問題を解決できる能力や権力があるなら大したことではないのです。

 

 じゃあなんで私が穴のないフィルターを求めるかというと、ただの趣味です。私はただ穴のない意見が欲しいだけです。

 だから、いろんな人の意見を取り入れてじっくり考えます。反面、とりあえず穴はあってもいいからバンバン発言しよう、という人もいます。その人は、そういう趣味なのです。そして他人の趣味を否定する必然性はありません。もちろん、発言の責任は常に問われるでしょう。でもそれは、どんな趣味だって同じです。どんな遊びにも仕事にも責任は常に付きまとうものです。

 

 また安易に穴あき発言する人がいないと、穴のないフィルターを作ることは出来ません。だから私は、穴のある発言で、それが例え立場や状況から鑑みてあまりに不適切であったとしても、「発言したこと自体」は賞賛したいのです。

 その上で、発言の是非を糾弾するのは、またそれが趣味の人に任せればいいですし、自分が糾弾すべきだと思ったらすればいいのです。

 

 ツイッターSNSがはやるようになって、どんな立場の人でも安易に発言を拡散できてしまうということの問題点が取り沙汰されますが、私は全く問題だとは思っていなくて、ただ私が触れられる情報の可能性が広がっただけなので、とても喜ばしいことだと思っています。

 

 ただ、これは私の考えなので他人がどう思うかは別です。

 

 たとえば私は私なりに問題を抱えていて、それについて安易な発言を見たりします。でも、それで不快になったり怒りが湧いたりはしないので、どんな意見がネット上に転がっていても平気です。むしろ事実とは異なる偏見に満ちた意見が表面化するので都合が良いとすら考えています。

 でもそうじゃない人が大半なので、やはりネットリテラシーを考えていく必要はあるのでしょう。

 

 「私が平気だからいいだろ」は暴力です。

 

 私と違う考えの人を尊重するためにも、ネットで安易に発言できてしまうことの是非は常に考えていくべきでしょう。安易な発言で人が傷ついたり不快になるなら、なんとかうまい落としドコロを見つける努力は必要だと思います。

 

 自分と他人は違います。当然、意見も違うし思い込んでる正しさも違います。その上で、自分の意見に不備がなく正しいと信じて発言するもよし、さらに反対意見を糾弾するもよし、発言力を増すために様々な戦略をとってもよければ、誰も見ないチラシの裏にかいてもいいです。そして、それらの行動のすべてを傍観してもいいし、あるいは冷笑するのもいいでしょう。私はそれらの言動をなるべく抵抗なくスポンジのように吸収して、その上で自分の中で「納得できる」考えを見つけたいと思います。

 

 人生は短いけれど、浪費しないと退屈な程度には長いです。だからあんまり焦って意見を出すこともないと私は考えています。