ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

こんにちは。承認モンスター

 中学の頃の教師に「お前はお立ちバカだ」と言われたことがあります。私は意味が分からなかったのでたずねたところ、「目立とうとしてお立ち台に乗せられて踊ることだ」と言われました。たぶんジュリアナのことを言ってたのでしょうが、中学生にバブル文化なんてわかるわけないので、「なにいってんだこいつ」と思って聞き流しました。ただバカと言われたので、教師に面と向かってバカと言われたことはあまりなかった(怒るための台詞ではなく、冷静にバカと言われた)ため、印象的だったので記憶に残っていました。

 それで当時は、分からなかったけれど今になってみると、なかなか的確なことを言っています。

 

 私は他人の意図に乗りやすいのです。その意図にのって自分がどうなるかとか、相手がどうなるのかをあまり考えません。「○○やろう」と言われて、言った相手に好意をもっているなら、大体のことは応じます。

 

 私は中学の時に放送部に所属していて、昼に音楽を流していました。普段は放送室に置いてあったCDを流していました。クラシックとかカーペンターズとか、あとビートルズもあったかな?たぶん放送部顧問の先生の趣味です。私は毎日、同じ音楽をかけるので「くそつまらん」と思っていました。

 ただ毎週金曜日はリクエスト日になっていて、生徒が持ち寄ったCDを流してよくて、私はその日がとても楽しみでした。

 放送部は当番制で、だいたい二人でやるのですが、音楽流すだけの時間になれば機材をいじったりアナウンスしたりと忙しいこともないので、担当のうち一人が途中で帰ります。

 私は金曜日に誰がどんな音楽をもってくるのかを、いつも楽しみにしていたので率先して残りました。

 

 

 その日は、悪友が放送室にきました。校舎の裏で煙草をすっているようなヤツだったので、放送室にくるのは珍しいな、と思いながら用事をきくと、リクエストがあるとのことでした。

 そして持ってきたCDがオナニーマシーンの「恋のABC」です。タイトルから分かる通り、下ネタ全開の曲です。ペッティングとかセックスとか叫んでます。いや、曲はふつうにいいんですけどね。

 

 相手は「これ流して」とだけ言っていなくなりました。私は曲を知っていたのですが全く抵抗がなく、ただ「おもしろそう」と思ったし、友人も喜ぶと思ったので流しました。

 そしてその日、全校生徒は「キス・ペッティング・セックス」という歌詞を聞きながら給食を食べることになったのです。最悪ですね。

 

 でも、当時の私はそれの何が悪いか全然わかっていなくて、しれっと教室に戻りました。その後、教師に呼びだされて、事情を聴かれ、指導を受けました。

 めんどうな全部が終わったあと、友人に「マジで流したのかよ」と言われて、「うん、流した」と答えました。一呼吸したあと、二人で爆笑しました。

 

 私たちは閉じた世界に生きていました。

 

 私は普通に生きていると、なぜか人がドンドン離れていきました。それでも近くにいてくれた人たちは、ちょっとだけ平均からずれている人が多かったです。良い意味でも悪い意味でもです。いい悪いは違うか。ようするに生徒会長と不良とオタクが友達みたいな感じです。不良とオタクは排除されててわかりやすいけれど、生徒会長も普通の人はなりたいと思わないし、やっぱりどっか人とズレてる人でした。

 高校に進学したあとも、普通の平均の友達は出来なくて、進学校なのにタバコ吸ってバンドやってる人とよく遊んでました。そいつはイケメンで年上の彼女がいましたね。

 遊びつつもちゃんと勉強も出来る人で、たしかmarchのどっかに引っかかってたと思います。

 あと、リスカしてるマッシュカットの文学青年とかが友達でした。その子は大学にいってから一度だけ会いましたが、薬をジャラジャラ持ってて色々見せてくれました。

 

 「リタリンが規制されるので飲めなくなるから辛い」と言っていたのを覚えています。その時はリタリンどころか薬をぜんぜん知らなかったけど、意味を知らなくても覚えてて、あとで知ってから理解するってこと結構おおいですよね。

 

 私はそんなメンツの中にいても、「なんかコイツやばい」みたいな扱いをされていました。だから、重要なイベントに呼ばれなかったり、私だけ知らない情報があったりしました。まあ、自己愛が強くてプライドが高かったので、当然と言えば当然でしょう。

 

 私は友人が出来にくいし、出来てもどこか距離を置かれました。

 

 でも、そのことを自覚していませんでした。それに、気づいてもどうしたらいいか分からなかったでしょう。というか、今でも分からないです。

 いや、頭では分かっているんですよね。友人であるためには、その友達付き合いに見合う利益を、お互いに相手に与え合わなければいけないのです。

 

 それで利益というのは、それぞれがもってる幻想で、簡単にぶっ壊れちゃうんだけど、そんなよわっちい幻想を保障してくれるものがあって、それが社会的承認なのです。

 

 私が進学校のイケメングループに所属し続けるには、私も勉強が出来て、イケメンになる努力をしなきゃいけなかったのです。あの子たち、高校生なのにポールスミスとか着てたんですよ。家も医者だったり。私はユニクロだし、家は建築業でした。全然合わないのになんで遊んでたんだろう。

 

 でも当時は「見合わない」なんて、まったく考えていませんでした。遊んで楽しければそれでよかったし、それ以上のことはなにも考えていなかった。でも、相手はちゃんと考えていて、「この人間と仲良くするのはここまで」と判断していたのでしょう。それで疎遠になりました。でも私にとっては「いつものこと」でした。

 

 私は人間関係を構築すると、それが社会からどう見られるのかをあんまり考えません。楽しければいいという気持ちがとても強いのです。

 でも、私が楽しい状態というのは社会的にはダメっぽいので、もう「社会なんか知らない」状態になってて、それが長かったので社会的承認や社会的欲求に全く無頓着になってしまったのです。待遇のいい会社に入って、収入を増やして、会社では友人を作り、容姿・性格ともに納得できるパートナーを見つけて、結婚して、子供を作って、家を建てて、貯蓄して、あとなんだ、よく分からないけどベッドの上で死ぬみたいな。

 私はそれらが全部どうでもいいと思っていました。

 

 でもそれだと、社会的欲求を信じている人と仲良くできないのです。あと内面深くに抑圧した社会的欲求が、無意識のうちに悪さをしている気がするんですよね。だから最近は、それらとどうやって向き合おうか考えています。

 

 社会的欲求をインストールしたい。社会的欲求をインストールしたい。

 

 私は発達の段階で社会的欲求を信じるためのハシゴが外されてしまったので、どうしたらいいか分からないのです。というか、最初からハシゴなんてなかったのかな?

 

 私は私を好きだと言ってくれる人が好きです。私と仲良くなってくれる人が好きです。その人たちを排除してしまう理由の何もかも、例えそれが社会的な、一般的な価値では間違いだとしても、私はそれらを北極の永久凍土の中に埋め続けています。

 

 価値は他人から与えられるものだけど、やり方次第では「そうじゃない」って信じることもできる。

 

 私はそうしないと生きていけなかったので、実践した。

 

 私は他人からの承認がなくても価値を信じられる。けれど、その心を育てすぎたせいで、抑圧された承認モンスターが心の奥底で育ったのかもしれない。

 

 承認を欲していると自覚できないほどに承認を殺し続けてきたのかもしれない。

 

 承認を抑圧し過ぎたので、承認してくれそうな人がいると私は頭がおかしくなる。

 

 私は自分の都合を自覚していないし、相手の都合も理解しない。というより都合を理解しても無駄だとあきらめてる。理解しても大抵の人とはあまりにもかけ離れているからだ。

 だから承認モンスターが暴れるままに、相手に合わせたり自分勝手になったりしているのだろう。

 

 それをなくすためには自分の都合と相手の都合を知る必要がある。知るには、自分の心の奥底にもっと分け入ることと、他人と交流することだ。

 

 こんにちは。承認モンスター。私はあなたと向き合わなければいけないんです。