ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

エピソード記憶とコンプレックス

 容姿コンプレックスについての記事を読んで、考えたことをまとめます。私はたぶん容姿コンプレックスはなくて、そりゃあ目の前に神様が表れて「マット・ボマーみたいな顔にしてやるけど、どうする?」って聞かれたらすごく悩みますけど、でも、顔が変わったら「今ある状態を全て投げ捨てること」になるので断るでしょう。

 

 私は容姿に優れているわけではないですが、それでも「この顔は私のIDである」という意識が強いです。なのでIDを捨て去れるほど、私にとっての容姿は価値をもちません。私の今の顔で、私のことを好きだと言ってくれる人が、そんなに多くはないけれどいるので十分です。

 

 そう考えられるのは、私が容姿に対して、具体的なエピソードをもたないからでしょう。

 私は容姿に関して否定された記憶があまりありません。あるはずなのですが、きっと記憶を改ざんしたのでしょう。記憶を改ざんできる程度には、些細なエピソードだったのだと思います。

 

 その反面、容姿に優れているのに、必死に容姿を求めている人は、容姿を否定されたエピソードがとても強烈なエピソードとして、精神の根底に居座っているのだと思います。

 

 「判断」の定着は、具体的な経験の反復による強化がもたらします。「私は醜い」という判断の裏には、沢山の「醜いと判断したエピソード記憶」があるのです。

 

 それでエピソード記憶の反復には、泥沼の様相があって、たとえば「電車に乗っていて隣の人が席を立って別のところに座った」という状況があったときに、容姿コンプレックスの強い人は「私が醜いから席を立ったのだ」というエピソードとして記憶してしまって、さらにコンプレックスを強化してしまうのです。

 

 これは発達障害にも言えることで、なにか失敗をしたときに「発達障害だからだ」というエピソード付けをしてしまうと、より発達障害であることに執着してしまいます。その反動で、「発達障害には天才的な人も多い」というエピソードに縋りたくなるのです。

 

 しかしながら、そのような心の働きは人間の自然な機序で、人間は経験をもとに判断をし、即応的に進化するという性質を持っています。

 

 そのために、失敗談やノウハウに対する欲求が強いのです。

 

 他の生き物にはあまり無い性質で、多くの生物は種の自然淘汰を単位として経験を継承するのですが、人間は記憶と判断によって短いスパンで淘汰を行います。

 いわば進化のシミュレーションを出来るのです。

 

 これは素晴らしい人間の性質ではあるのですが、当然にその反動もあって、素晴らしすぎるゆえに必要以上に振れ幅を持ってしまうのです。

 

 容姿は生命を継続していく上で、あまり重要ではありません。しかしながら、それを苦にして自死をしてしまえるほどに、人間のシミュレート能力は高いのです。

 「この程度の容姿なら自ら淘汰したほうが良い」と思える生物は他にいないでしょう。

 

 人間は高い知能を持つことで、生命の有り様を実際に作り変えなくても、ある程度は予測をつけることが出来るようになりました。しかしながら、その弊害によって多くの複雑な状況を生み出しているのでしょう。

 

 けれど、そんな弊害を払しょくできるほどに、高い知能も同時に持ち合わせていると私は信じています。



 「隣の人が席を立った」



 その状況で「私の容姿が劣っていたからだ」という意味づけをするのではなく、「ゆとりのある席に移動したかったのだろう」と意味づけをすることも出来ます。

 そうすることで、エピソード記憶のバランスは取れていくし、それが出来るだけの素養は誰でも持っています。なぜなら、エピソード記憶を強化できるのだから、その流れに逆らえるだけの力も持っているからです。

 

 もちろん、いままで培ってきた記憶から逃れるのは大変でしょう。私も容姿ではコンプレックスを持ちませんが、それ以外でだいぶ拗れています。

 

 それでも自分の知性を信じて、自分が楽になる道を模索するだけの能力はあるのだ、という希望だけは捨てないで生きていきたいです。