ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

悪なき世界

 体罰を苦に自殺した人に「私の子供のころはもっと厳しかった」という人がいる。いじめを苦に自殺した人に「なぜ親や友人に相談しなかったのか」という人がいる。レイプされた人に「なぜもっと身の安全を考えなかったのか」という人がいる。

 

 それらの発言をする人はきっと正しいだろう。

 

 意見とは自分が培ってきた経験や知識の集約だ。そして、正しさとは経験や知識が主観的に判断したものでしかない。

 

 いじめを受けたことがない人生。あるいは、いじめを受けても様々な要因でトラウマを退けられた人生。そういった人生を歩んできた人にとって、いじめという加害はとても小さな出来事でしかない。これは性被害や体罰でも一緒だ。

 

 加害を受けなかったか、受けても排除できる能力や境遇を持った人にとって、「ただ黙って加害をうけること」は”不正”に映るのだろう。加害は当人の工夫で回避できるもので、回避できる工夫をせずに被害にあうのは当人の怠慢だからだ。加害にあわずに生きてきた人は、人生を自分でコントロールできるという自負をもっている。その自負が被害者に対しても発揮される。

 

 自分は正しく生きてきたし、他人もそうあるべきだし、当然そうできるはずだ。

 

 他人を容易に断罪できる人は、そういった考えを持っている。世の中には善と悪があって、自分は善に所属して生きていて、糾弾すべき悪が常にどこかにある。このように、自分が善の代弁者であると勘違いするのは危険だ。自分の判断と発言は正しく、それに他人が耳を傾ければ世の中が良くなると思い込んではいけない。

 

 世の中は極端に良くなったり、悪くなったりはしない。いじめも体罰もレイプも、いままでずっとあったし、これからもずっとあるだろう。それは学校に監視カメラを置いたから、インターネットにマイナンバー利用を強制したから、出会い系を違法にしたからといってなくなるものではない。姿形を変えて、同様のことは起き続ける。

 

 世の中には悪があり、その原因があると考えて悪の因子を取り除こうと尽力した指導者は沢山いたが、「悪のない世界」をもたらさなかったのは歴史が証明している。もたらしたのは、ただ混乱だけだ。

 

 つまり、善悪は個人の小さな世界でしか保たれないということだ。自分が善良で正しい人間だと思えるのは、そう思えるだけの小さな世界でしか生きていない。また逆に自分が悪辣で不正な人間であるという考えも小さな世界のことでしかない。その小さな世界に他人を付き合わせようとすると、当然に軋轢がうまれる。それが極まると支配や独裁になる。

 

 世界には幾重にも小さな世界があって、それらの世界の拙いつながりによって社会が構築されている。拙い通信網に頼ってうっすらとした価値観を共有し、かろうじて社会を運営しているだけに過ぎない。 だから、この世に共通理念としての善悪はない。とうぜん代弁者もいない。だれも善悪について語れるものはいない。

 

 ただ、誰かにとっては善に見える性質をもち、ほかの誰かにとっては悪に見える性質をもつ人間がいるだけだ。その点は、どんな人間でも変わりがない。信じる善も戦うべき悪も「そう見えている」だけで存在していない。

 

 善悪はただ「納得するため」だけにある。

 例えば中学生が無残に殺される事件が起こったとき、その強烈な出来事を社会性の高い人間は身を切られる思いで受け止める。そうやって受け止められるのは、人間の素晴らしい性質ではあるが、同時にそのストレスをどうやって処理するかという問題に直面する。そのときに善悪は持ち出される。

 

 「悪い人間がいたから犯罪が起きた」

 

 そう考えることで、善なる自分を事件から分離することができる。あるいは、その考えを発展させて「被害者の素行も悪かった」という判断も加えれば、痛ましい事件と自分をより深く分断できる。そうして「自分はそうならないように善良な人間でいよう」という決意を新たにする。

 

 世界中で起きている「痛ましい出来事」は全て社会の不備だ。そして、不備を作ったのは人類全体だ。だから、「善良な私・誰か」と「悪辣な私・誰か」といった分断は出来ない。すべての人の責任であり、また誰の責任でもない。

 

 そして社会の不備は誰か一人がなにかをしたところで変わらない。フォロワー10万人のアカウントがアフォリズムめいたことをツイッターで飛ばしたしても、政治家が人道的な政治をしても、資産家が私財を投げ打っても変わらない。

 

 しかし、変わらないからといって、私は考えることや行動することを放棄しない。

 

 何も変えられないと知りつつも、私は考え行動する。それは私が善の一員だから、あるいは悪の一員だからという超越的な理由ではなく、ただ生きているからだ。 

 私は安易に「善・悪」に頼って問題を片づけたくはない。かといって問題自体に取り組むことも放棄したくはない。

 そして問題に取り組むことで何か答えが得られたり、また自分や社会が善や幸福に近づけるという期待もしない。生きているから、考えて行動するだけだ。私は生きていることを、善悪や幸福という使い勝手のいい言葉でごまかしたくない。

 

 だから人に道を示そうとする人とは、注意深く向き合っていかなければならない。善悪や幸福や人生の答えがこの先にあると説く人は危険だ。それらは魅力的に響くけれど、存在しないものだ。存在しないものを説こうとするのは、別の目的があるか、見えていない(無視している)要因があるからだ。

 

 誰かが善悪や幸福や人生の答えについて語ると、その場にまばゆい光が差し込む。しかし、その光が明るければ明るいほど、生まれる影は濃い。私はその影までちゃんと見たいと望んでいる。