ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

ころす

 私は闘争が怖いです。私の欲求と誰かの欲求がぶつかり、キナ臭さが漂ってくると私は体が強張り思考が鈍くなってしまいます。そして結局は相手が望むことを勝手に推察して、その通りに行動してしまいます。

 

 かつて私は粗野な子供でした。いわゆる問題児で、親が何度か学校に呼ばれもしました。これはいま思うに闘争を模索していたのだと思います。しかしながら、私の闘争はただの暴力でしかありませんでした。この場合の暴力は、身体的ダメージを与えるものを指すのではなく、あらゆる社会的には認められにくい力の発揮の仕方を指します。自傷行為、深夜徘徊、飲酒、喫煙、薬物依存、エトセトラエトセトラ。

 

 暴力はひたすらに抑圧されます。暴力を使うたびに否定され、自尊心を失っていきます。これは教育として当然でしょう。暴力を使うものを矯正するために教育はあると考えられているのが普通です。

 私の両親は、正しく強い人間です。社会的にも成功しています。私はその強く正しい人からの教育に耐え切れませんでした。私は日々減っていく自尊感情とそれを補うための自己愛を肥大化させ、そして全方位に暴力を振りまいていました。

 青少年ごろの視野の狭さではそうやって生きていけましたが、今は少しだけ視野が広くなってしまったので、もう自己愛と暴力では生きていけなくなってしまいました。多くの人は、自己愛や暴力の問題を抱えていないし、抱えていてもある程度はコントロールしていると気づいたのです。

 

 私は多くの人と同じように自己愛と暴力をコントロールしようと考えました。しかし、そのことに気付くのが遅すぎました。多くの人は思春期に「なぜ疎外されるのか」を考えて、自己愛と暴力に気づいてコントロールをし始めます。(もちろん、自己愛や暴力とは無関係の本人に原因がない疎外もありますので、短絡的に自己愛や暴力的な人間だと判断するのは危険です)

 

 あるいは、気づかなくてもいいぐらいに、正常な自己愛と闘争性(社会的に認められる力の誇示)を持っているのです。

 

 私はすでに「済ませた」人たちのなかで、自己愛と暴力の問題に取り組み始めました。周囲ではどんどんと闘争が起こっているなかで、私はまだその前段階だったのです。

 

 闘争とは水の流れのようなものです。力が高いところから低いところに流れたとき、そのままにせずに抗うことです。闘争は必要です。闘争をせずに流れる力をそのままにすれば、ただその圧力がより低いところに流れていくだけです。

 

 私はおそらく、その状態にあります。自分を守るために全方位に向けていた暴力と自己愛性の高さを捨てたため、ただ迫ってくる強い力(言葉、態度、立場)を受け入れて、逆にぶつけられる弱い場所に流しているのです。

 

 これは全方位爆撃をしていたころよりももひどいでしょう。誰も彼もを見下して殴りかかっていれば、だんだんと社会に疎外されて野垂れ死ぬだけでした。わかりやすい核マークがついていれば、誰もが早い段階で気付いてくれるので、誰も傷つけないで済みます。

 

 しかし私は、流しやすい相手を見つけて、水を流すようになってしまいました。核の危険性を丁寧に隠ぺいできる能力を得てしまいました。たんてきにいえば甘える相手を選ぶようになったのです。

 

 もちろん、甘える相手を見つけるのは大切です。甘える相手がいないと全方位への暴力と自己愛に陥ってしまいます。甘えをなくすことは出来るかもしれません。ただそれは、他者への執着を一切断つ必要があります。これはブログを書いてる時点で無理ですね。私は他者への執着が低いですが、まったくないものとして生きていけるほどの魂は持ち合わせていません。だから私は健全に甘える相手を見つける必要があります。

 

 しかし問題は、甘える相手への水量がコントロールできない点です。原因は高いほうから流れ込んでくる水に抗うすべを持たないからです。高いほうから流れてくる水をすべて受け入れてしまえば、その分だけ甘える相手にも水が流れてしまいます。ある程度は溜めることが出来ますが、根本的な解決ではありません。いつかはどこかに流れ込むか、自壊するかです。

 

 だから、流れ込んでくる水と戦わなければなりません。闘争は自分の権利を守ると同時に、自分を甘えさせてくれる人の権利も守れます。

 

 これは私がずっと疑問にもっていた社会的成功の価値にもつながることです。なぜ社会的成功を手に入れることが大事なのか。それは闘争をするときに負けないためです。社会的に成功すると力が流れ込んできにくくなるし、流れ込んできてもお金だの立場だので解決できます。

 かつての私は社会的成功がなくても生きていさえすればいいと思っていました。生きていけるだけの最低限があればいいと思っていました。酸っぱい葡萄ではありますが、成功しても今の生活とそんなに変わらない気がしたからです。

 

 でもそんなことはないですね。常に力は流れてくる可能性があります。悪意があっても悪意がなくても、自分でも他人でも、力はある日突然に降ってきます。それは内在する要素だけで解決できるものもあれば、そうでないものもあります。内在する要素で解決できないときは、社会的に解決するしかありません。そのときに社会的成功をしていれば、様々な手段が取れるのです。

 

 私は解決できない問題があっても、自分の精神性でなんとかなるという意識が強くありました。

 

 でもその自負は誤っていました。私は自覚せずに誰かに寄りかかっていたのです。それは貴族文化に似ています。貴族はとても華やかな文化を作りました。でも、その裏には寄りかかられた沢山の人々がいたのです。誰かに寄りかかり、純粋な精神性だけを高めるのは楽だし気持ちがいいです。楽で気持ちがいいことは、多くの人から尊重されます。それが貴族が生み出したアートです。

 もちろん、寄りかかることは悪いことではありません。でも、寄りかかった分だけ寄りかかられてもいいように自分も強さを持たなければならないのです。そうしないと、ただの搾取になります。

 

 私は闘争が出来ません。闘争が怖いのです。だから闘争を仕掛けてくる相手には譲り、闘争を仕掛けてこない相手には甘えます。

 

 私はこの心理を変えていきたい。闘争を仕掛けてくる相手に立ち向かって、闘争を仕掛けてこない相手に負担をかけるのをやめていきたい。

 

 生きているだけでいろんな闘争が降りかかってくる。闘争に負ければ何かしらを流し込まれる。その帳尻はけっきょく自分か、自分を甘やかしてくれる誰かがすることになる。

 

 今日、闘争に負けた。私は弱い。闘うのが怖い。だが、闘争に負けたことを自覚している。これはきっと進歩だろう。負けを内面で解決してしまうのをやめよう。私は水を流し込まれたのだ。

 

 「そんなことどうだっていいじゃないか」

 

 この思いが根幹にあるのは認める。私は自分の欲求が通らないストレスを抑圧するのがうまいのだ。

 けれど、私のことを「どうでもよくない」と思っている人が少なからずいるし、私はその人を利用してしまうから負けたことを抑圧で片づけてはいけない。負けを認めて、負けないように工夫してこそ誠実な付き合いだ。

 

 負けを意識に刻み込む。ゆっくりと根付かせたそれが、芽吹くことはないかもしれない。精神性は容易に変わったりしない。だから同じように闘争を仕掛けられても、また負けてしまうかもしれない。

 

 闘争を回避する意識をどうやって変えればいいのか分からない。これは自分で考え、見つけ出すしかないだろう。自尊心や成功体験の積み重ねが関わっているのは分かるが、それらの積み方がよくわからない。

 

 ただ「負けた」ということをきちんとストックしていこうと思う。そのうちで傾向とか対策が見えてくるかもしれない。



 私は負ける。負けたからこそ、負ける人を、私も含めて負ける人を肯定できる。いや、違う。肯定なんて生易しい言葉じゃない。殺さないといけない。

 

 私は私を殺してきた全てにたいして、私の殺しのほうがマシだと証明する必要がある。全てを殺すのも、全てを殺さないのも間違っている。命は、ただ自分の殺し方が正しいのかを模索する。そうやってお互いの殺し方をぶつけ合って均衡を保っている。そんなシンプルなことすら、分からなかった。私は馬鹿だ。

 

 やってみようと思う。

 

 私は殺す。責任を持って。

 

 そんなこと出来るのかって不安だ。不安だけど、信じてみたい。信じるのは苦手だけど、頑張って信じてみたい。



 無理かな?