ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

じゆうのはなし

立ち上がれJKという言葉を見た。
膝を折った女子高生が、必死に戦おうとするイメージが思いつく。
でも、ふと不思議に思う。
私は女子高校生ではなかったが、私が高校生のとき、同級生の女性はそんなに弱かっただろうか?
女子高校生なら痴漢されて当たり前のか弱い存在だったか?
確かに社会的には弱い。お金も自由も権利もない。未成年は男女関係なく未熟だ。でも、それぞれに深い宇宙を湛えた人間同士だった。その自由さは誰にも侵害できるものじゃなかった。

若かったから間違ったこともしたけれど、ただ蹂躙されるようなか弱い存在じゃない。

みんな真剣に考えて必死に生きていた。私たちは私たちなりに強かった。立ち上がらなくても、ちゃんと立っていた。

女子高校生は当たり前に痴漢される存在じゃない。

美しくて若くても痴漢されない人はいる。そこには理由なんてない。理由があるのは痴漢をするほうだ。たまたま痴漢ができる酷い人間が近くにいたから痴漢をされただけで、可愛いからとか、若いからとか、露出が多いから痴漢をされたという考えは狂ってる。

テレビを見ていた。
児童養護施設の番組で「お母さんに会いたくないの?」とスタッフが聞いていた。

なぜ聞くのだろう。

会いたいか会いたくないかは本人が決めることだ。わざわざきくまでもない。
会いたければ、本人がなんとかして会うだろう。親と会うことだけが幸せじゃない。

幸せは十人十色だ。私の友達にも両親と決別した人はいるけれど、とても幸せそうだし、私より社会的に成功している。会いたいどころか、会わないほうがいいと言っている。

高校の頃、サウナにハマってよく行っていた。そこで知らない男性に「にいちゃんガタイいいな。モテるだろ?」と聞かれた。

わけがわからなかったので適当に相槌を打ったが、いい気分はしなかった。モテるかどうかを他人にジャッジされるのは不快だ。

どんな体格でも、たとえ身体欠損があっても、モテる人はモテるし、モテない人はモテない。誰かが一方的に、決められるものではない。

人は体の制約から自由だ。

酔っ払った女性と男性が一緒に帰るとお持ち帰りと表現する。
やはりピンとこない言い方だ。
酔っていれば男女関係なく開放的になる。それを一方的な形でお持ち帰りと表現するのはおかしい。
全ての人は自らの自由な選択で誰かと肉体的に通じ合うことが出来る。


マウンティング的な価値観の決めつけが世の中には溢れていて、なんでだろうと不思議に思いつつも、正体には気付いていて言いようのないモヤモヤを心に持つ。

女子高校生は痴漢されるか弱い存在でなければいけないし、養護施設にいる子は親に見捨てられた可哀想な子供じゃないといけないし、若くて体格がいいことはモテないといけないし、酔っ払った女性は口説くチャンスじゃないといけない。

そういった決めつけは誰かの都合の良さの上に建っていて、その都合の良さこそが今の社会を作っているのだろう。

社会は、世界は、もっと自由で開かれているのに、それを阻止する力が強い。私はその力の前に無力だ。

それでも私は、小さな石を転がして遠くの地で竜巻が起こることを願って生きていく。

私は自由だ。貴方も自由だ。誰かの言葉に定義されることはない。