朝から美術館に行った話
早起きしたので美術館にいった。以前、シーシャ屋で出会った方が出展している展覧会をみるためだ。
私はくしゃみと同時に出てくる鼻水みたいに、勢いとタイミングで生きてるので、ときおりこういった衝動的な行動に出る。いや、もちろん、まったくのテキトーで思いつきってわけじゃなく、前々から行きたいとは考えていた。
本来だったら出展者に「19日の朝にうかがいますー」って言っておけば手間がなくていいのかもしれないが、私は予防線と布石を置くことに関しては諸葛亮公明をも凌いでいると自負しているので、「万が一寝坊したらいやだなー」というまったく手前勝手な懸念のため、なんにもいわずに当日の朝を迎えたのであった。
当日の朝になって、出展者からシーシャ屋について尋ねるメッセージが来てたため、そのついでに行くことを報告するというヘタレっぷりである。
平日の朝の美術館なんて誰もいないだろーと思ったら、意外にそうでもない。数メートル間隔には人がいて、駅から美術館までの道は「人の流れ」といって差し支えないほどの交通量があった。
流石に働き盛りと思しき年齢の人は少なかったが、ツアーらしき子供やお年寄りの集団にはよく遭遇した。私にとって美術館は「作品を見に行くところ」という印象だが、見方を変えれば「観光地」なんだから、そりゃあこういう光景にも納得である。
ババーンとデカい看板で宣伝しているような主たる展示には、開館待ちの行列が出来ていた。この行列はは美術意識の高さによるものなのか、それとも観光意識の高さによるものなのか。いや、区別することに意味はないのだろう。
小学生のころ、遠足で美術館に連れていかれ、ハンバーグオムライスの付け合わせに「ひじきの煮物」が出たような気分になったけれど、行ってみると案外楽しいものだった記憶がある。ひじきの煮物も、食べてみればおいしいものだ。
反対に転げまわるほど楽しみでいった修学旅行のディズニーランドは、入園30分ぐらいでフリーパスをなくしたので、人生観が歪むほどつまらなかった。いや、フリーパスがないなりに工夫して遊んだので、歪むってのは冗談だけれど、なんとなくディズニーランドが苦手な理由はそれかもしれない。
なにが目的で、なにを得るのか。どんな期待をしようとも、観光地は万人のために開かれているし、また思いがけない形で拒絶する。
そういえば、かつて初対面の人に「毎週末に美術館へいって、そのあとスタバでマックを開いて感想ブログを書いてそう」っていう煽りのような、ギリギリラインの人物評価をいただいたわけだが、ニアミスのようなことをしているのでなかなか鋭い指摘であったと思う。
行列をつくる老人たちを後目に会場へ向かう。
老人や子供が行楽しているのを見るのはいいものだ。行楽はそれなりの余裕がないと出来ない。老人や子供のように生物的に弱い立場の人が、安心して観光できるというのは、社会が機能を果たしている証明だ。もちろん、不備はたくさんある。しかし、今の社会のありようが、まったく無駄ではないと思うと希望がもてる。
会場につき、受付に話しかけた。展覧会の名前を確認し、相手の反応を待つ。受付は少し困惑しているようだった。それもそうだろう。厚生労働省の基準でいうところの青年期ではギリギリあるが、小さな子供から「おっさん」と言われても「仕方ないか」と納得してまえる年齢に差し掛かってるぐらいの男が、平日に開かれる展覧会の初日、しかも開館早々ににぼーっと突っ立っているのだから。
十数秒の沈黙が流れ、「えっと、出展者の方ですか?」と問われた。
女性アーティスト限定の展覧会だったが、トランスジェンダーの可能性も含めた質問だと気づいたので「一般参加です」と答えた。
しかし、それでも一瞬、私の思考は止まってしまった。言いようのない違和感が、理性を無視して体の中に流れた。
トランスジェンダーは普段からこういう思いをしているのだろう。生きにくさもストレスも、私が想像しているよりずっと大きいのだと思った。相対化して私は恵まれているという言葉は不適切だが、それでも自分がいかに「のほほん」と生きていられる立場であるかを実感した。
私はへったクソな字で芳名帖に記入すると、会場内へと入った。一番上があんな死にかけたミミズのような字なら、後の方々は余計な気負いなく記帳できるだろう。朝から善行を積むのは気分がいいものだ。
会場には絵画だけでなく、ドレス・球体関節人形・フェルト人形・カバン・ゴーカートなどがあり、私の好きな雑多さと生っぽさを感じた。私は整えられたものより無軌道なものが好きである。
40分ほど見て回ったあと、出勤の時間が来たため退館した。駅に向かう道すがら、参加のきっかけになった出展者とすれ違う。軽いやり取りをしたあと、電車に乗って会社へと向かった。
電車に揺られながら「子供と老人を見て、アートを見て、仕事に行くってなんだか人生の縮図っぽい」なんて下らないことを考えていた。