ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

虚無感の正体と分岐について

 私には虚無感があります。しかし、それは一般的な印象の”悲観的な”虚無ではありません。この虚無は私が望んで獲得したもので、私の危うい精神バランスを保つために必要なものです。だから、忌み嫌うものではなく、ましてや、なにかで埋めるべきものでもありません。埋めるときが来るならば、それはともに墓穴に入るときでしょう。

 

 虚無を開いたのは、さまざまに絡み合った要因をもちますが、なかでも大きいのは父親との関係です。私はある段階で、父親を引きはがす必要に駆られました。私たちは儀式を交わして決別しました。そのときに、胸中にあった軸と呼べるものが抜けてしまいました。

 その軸は強力な父権であったり、社会的成功を望むことであったり、金銭的余裕にこだわることであったりしました。

 

 私は抜け落ちた軸を補てんするために、それらを意図的に嫌うようにしました。また嫌うことでより、父親と距離が置けるとも思ったからです。

 損なわれたものを取り戻すために損う原因になったものを憎んだり怒ったりすることは必要だと言われますが、私に関してはそれは不必要でした。そもそも私の怒りや憎みは儀式を経て完結していたからです。それより先のことは、私の問題であり、いくら父権や成功や金銭を否定したところで解決するものではありませんでした。

 

 私に損失を与えた軸を否定して得たのはただ、軸を否定することや、さらにその軸を否定する軸を否定することが、大した労力でないという事実だけです。それによって、私の虚無感はいよいよ本格的に崩しがたく成り立っていきました。

 

 虚無感と向き合う方法は二種類あります。一つは軸を立てて生きることです。お金でも幸せでもなんでもいいですけれど、尺度を作って信奉すれば虚無は吹き飛びます。

 

 さいきん話題になっている音楽プロデューサーなどは、強固な軸とそれにそった目的意識と行動力を持っています。彼にとって世界は非常にシンプルなのでしょう。彼はホモソーシャルの一員ではありません。ホモソーシャルを利用してはいますが、意識はそこにないのです。そうでなければ、女性を利用しつつ男性から強固に集金するシステムを実装しようとは思いません。彼にとっては女性も男性も手ごまの一つです。セガの一件から平然と次の手を打てる精神性はそこから来ています。彼は、ジェンダーフリーが影響力をもてば、平然と女性の自立の歌を書くでしょう。

 

 父はその音楽プロデューサーを毛嫌いしていました。それは同族嫌悪であり、また正義感からきた怒りだったのでしょう。父は金の大事さを説きつつも、友人には気前よく金を貸し、震災のときには利益なしで家を修復し、そのうえで家族に金銭的困窮を感じせさませんでした。父は貧しさと低学歴という軸に囚われていましたが、それを実践的に解消していこうとしていました。

 

 実践性は社会への信頼感から生まれます。父も音楽プロデューサーも、自分の行動が社会にたいして意味を持つという信頼のもとに行動しています。信頼があるから軸を立てて生きていけるのです。

 私は社会を信頼していません。それは、世の中が善意で満ちているという考えが持てることではありません。社会そのものの存在を理解できないということです。

 社会には善意や悪意があって、それによって人が幸福になったり不幸になったりする。それ自体に強い違和感を持っているのです。

 

 その違和感を受け入れることが虚無と向き合うもう一つの手段です。つまり、社会自体を認めない傲慢な自分を許容することです。

 

 私はおそらく、タイミングと条件がそろえば、眉唾物の言い方ではありますが、サイコパスになっていたのだと思います。

 しかしながら、強固に社会性の強い、言い方を雑にすれば人間臭い父がいたから、そうならなかったのでしょう。

 

 私に共感性と思しき感覚が芽生えたのはずいぶん遅い時期でした。それは父の存在を否定し始めたときと合致します。父という対象を経ることで、あらゆる社会的な価値観は両義性をもち、恵まれる要素があれば、損なわれる要素もあるということが理解できたのです。

 

 私は恵まれる側の感情をトレースし、また損なわれる側の感情をトレースすることを覚えました。それによって、多くの操作的な言動を理解しつつも、それに流されようとする手癖がついてしまいましたが、それはそれで反社会性を阻止できたのでよいことだったと思います。

 

 サイコパスは強固な軸をもちつつ、それが均質な社会性をもたないという存在です。だから、適合度が高ければ社会で成功しますし、そうでなければ犯罪者になります。私は強固な軸を持つ人間が身近に居ることで、自分の特性を客観視することが出来たのでしょう。

 

 いま、分岐点に立っています。私は軸を持つ人に惹かれつつも、それを否定する思いが強いです。

 

 軸とは陰影です。陰影があることを許容するか、陰影自体から距離を置くか。私はどちらを望んでいるのだろうかと考えています。

 

 強固な評価軸をもち、それにたいして幸せや、怒りや、嫉妬や、まあなんでもいいのですが、動機づけをして行動するか、あるいはそれらの動機を全て焼き払って残った虚無と向き合うか、その選択のまえに私はいます。