ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

婚姻と少子化と高齢化とそれとは全然別に大切なことの話

 20代と30代の結婚願望の違いと少子高齢化について、いろいろと書いている人がいたので読みました。

 

論旨

 1.20代の結婚願望が上がっている

 2.婚姻数が増えれば出生数が増える

 3.10年後ぐらいには少子化は改善しているだろう

 4.晩婚化は1975~85年生まれ特有の現象かもしれない。

 

 また、その十年を異常な時代だったと言及するブログもありました。

 

それで色々とモニョッたのでこれを書いています。まず「少子化を改善」っていうのが、ピンときません。

 

 少子化の問題点は人口減少によって国の生産性が落ちて経済が停滞することにありますが、じゃあ人口が増えれば自動的に生産力が増え、経済が好転するのかといえば、そんな単純なことではないでしょう。

 

 実際に人口をひたすらに増やした結果が日本の現状なのですから、何も考えずにもう一度に同じことをしようというのは、切り株のウサギを待つようなことではないでしょうか。

 

 昔は生んで育てただけで労働力になって利益を生みましたから、産めば何とかなったわけですが、現在は教育コストが膨大になっていて、かといって教育をおろそかにすると労働から弾かれやすくなっています。かつては教育機会に恵まれなかった人々にも労働する場所はありましたが、それらの労働はロボットや発展途上国の労働者に取って代わられてしまいました。

 

 だから、単純に子供が増えれば全部オッケーというわけでは当然なくて、生まれてくる子供たちに現状の世相にあった待遇を用意できるかということが肝要なのです。

 

 そういうのはもうみんな分かっていてるから、2の婚姻数が増えれば出生数が増えるということにはならないでしょう。

 

 少子化を改善するのは簡単で、フランスのようにn分n乗とPACSを導入し、子育て支援を拡充して、「子供を作る人・子供に関わる人・子供」の三者に好待遇と流動性を用意すればいいわけです。

 

 子供を気軽に預けられる環境を作り、シングルの親で経済的な余裕がなくても教育の機会が開かれれば、子供を作る不安のほとんどは解消されます。理想は孤児とそうでない子がほとんど違いなく育てられる社会です。親が子を育てるのではなく、国が子を育てる仕組みを作るわけです。気軽に子供を作ってもらって、子育てが上手くいかないならすぐに国が請け負うという形になれば、「少子化」だけは解決します。

 

 しかし、そこまでして子供を増やしたからといって、経済的に豊かになる保証は当然ありません。現に少子化対策にある程度は成功しているフランスも経済的に成功しているかというと、難しいのが現状です。

 

 それでもなお、少子化に歯止めをかけることが有効だとしても、少子化対策を実現するために超えるハードルはとても高いでしょう。第一に、財源がありません。ないってことはないのですが、作り出すにはどこかから持って来なきゃいけないわけで、増税するか、ほかの予算を削るかという話になります。すると問題がとたんに難しくなっていきます。

 その難しさの最も大きな因子は、しょうもないことですが感情論です。

 

 今まで子育てをしてきた人たちは、「自力で苦労して育て上げた」という自負があります。すると、下の世代が楽な育て方(実際そうであるかは別として)をしようとしたら納得がいかないでしょう。家庭をもち、四苦八苦して子供を育て上げるのがまっとうな大人という価値観に基づくならば、気軽にこどもを作ってあとは社会に任せますなんて考え方は受け入れがたいでしょう。

 ましてや金なんか払いたくないと思うのも致し方ありません。

 

 これと同じ感情論なのが、若者から見た高齢者問題です。若者たちの年金割合はとんでもないマイナスで、日本の富は高齢者に集中していて、さらに貧困で孤独な高齢者の介護や医療問題もあって、これらすべてが若者に降りかかってくるわけですから、気持ちとしては納得がいかないものです。今の日本の問題を作ったのは、現在の高齢者ですから、その帳尻を自分たちが合わせないきゃいけないのかと憤慨するのもわかります。

 

 経済だけを考えれば、子供に投資するのが最善手でしょう。命に投資するという言い方はあまり好きではないですが、シンプルに考えれば耐用年数のながい存在に投資するほうにメリットがあります。

 こういう考えを突き詰めてしまうと、姥捨て山という話になってきて、貧困層の高齢者には安楽死も検討すべきだって言いだす人が出てくるわけです

 

 私は、安楽死自体には賛成ですが「貧困だから安楽死をする」となると、生きたい人でも貧困なら死ぬべきだという風潮が形成されていって、それはもう尊厳による自己決定的な死ではなく、ただ社会による殺人になってしまいます。

 

 私は、懸命に走ってきた人には笑顔でゴールを迎えてもらいたいです。生産性がないからと見捨てられて、「自分の人生はなんだったのか」と虚無感と呪詛を抱えて死んでいく様を「自己責任」なんて言葉では解決したくないです。

 

 と同時に「結婚して子供を増やせ」と社会圧力だけを高められ、実際に結婚して子供をもうけたら「自己責任」とされ、20余年も補給なしで行軍させられるというのも、また納得がいきません。

 

 そのような言葉を容易く言えてしまうのは、自分の立場を合理的に証明すればすべてが事もなしと考える現状のせいです。

 

 自分と違う立場を想像するのは難しいことです。さらに情報化社会になって、数値ばかりが目に入ってくるようになったので、ついつい問題を簡略化して考えてしまいがちです。しかし、数値の先には息づく人々がいるのです。その事実はどんな合理的な理由づけがあったとしても無視してはいけないと思います。

 

 もちろん、この考えが絵に描いた餅なのは重々承知です。少子化対策で旧態然とした子育てのあり方を変えるにしても、あるいは高齢者の待遇を手厚くするにしても、誰かしらは割をくうわけで、誰しもが割を食う側にはなりたくないと思っているでしょう。

 培ってきた常識、与えられると信じてきた期待、行動の軸となっていた道徳などを、くるりと変えるのは容易ではありません。だれもが、そんなことをしたくないでしょう。

 

 だから、何かを変えるには誰かが「割を食う対象」を決断をして、舵を切る必要があります。でも、それは行政の仕事で一般市民が自分の感情を込めてまでやる必要はありません。

 行政が合理的ながらも人を切り捨ているような「かじ取り」をし、一般市民は非合理でも人に寄り添った考えをして行政を監視・批判するのが、バランスの取れたよい状況だと私は考えています。

 一般市民も行政とおなしように冷徹となって数値に従ってしまったら、では行政の仕事はなんなのか、そして行政を止めるのは誰なのかということになってしまいます。

 

 もちろん、議論することは大事です。

 

 しかしながら、貧困高齢者の安楽死を願ったり、晩婚化がすすんだ今の30代を異常な時代のせいだと主張することに、どれほどの意義があるのでしょうか。

 当事者を傷つけ、当事者を憎んでる人(自分自身も含めて)が溜飲を下げる。その様は、社会問題に言及してはいますが、ただのコンテンツに見えます。襟を正して原稿を読み上げますが、その内容はコメディなのです。

 モンティパイソンの「バカ歩き省」ならば笑って見ていられますが、フィクションでないように言及されたら見るものには逃げ道がありません。

 

 「今の30代の晩婚化は特殊な状況で、いずれ正常な状態に戻る」

 「貧困層の高齢者は安楽死が最善だ」

 

 そのセリフに該当する層の人々を足元からざっくりと刈り取るような言及が軽々しく飛び交っています。

 

 発言者は行政を担う人でなく、ましてや専門家でもありません。だから、そのような人々の発言を真に受けるなというのは勿論でしょう。しかしながら、言われる立場と状況によっては、分かってはいても苦しいものです。

 

 ならば毎日、「天気」と「食べたごはん」と「観葉植物の状態」だけをブログに書けばいいのか。もちろん、そうは思いません。ブログは自由ですから、自由に使ってよいです。お金を儲けてもいい。アジテートしてもいい。

 

 耳目を集めるには過激なことや断定的なことを書くのも戦略の一つです。しかし、その戦略のために誰かを傷つける可能性があるという自覚は常に必要だと思います。

 それを失ってしまうと、やがて特定集団のスピーカーになってしまいます。

 

 響く音の意味を省みなければ、発する側と聞く側が、お互いに相乗してスピーカーの音量はどんどん大きくなります。やがて、スピーカーから発せられる大音響は耳をつんざくばかりになり、そして小さな声をかき消します。

 

 それは、はたして「最善」なのでしょうか。






 そうそう書き忘れてました。

 

 20代の未婚率はたんに頭打ちになっただけだと思います。婚姻制度がこのままであれば、大きく反転はしないでしょう。結婚のデメリットがしっかり伝わって、それでも結婚を選ぶ人や、あるいは伝わらない状況にいる人がこれだけ残ったということです。

 

 2015年の国勢調査速報でも順調に世帯数の増加と世帯規模の減少が起こっているので、「おひとりさま」は確実に増えています。もちろん、死別や離婚による一人身が増えたということでもあるので、そのまま20代の未婚率と相関するわけではありませんが、これから出てくるであろう未婚率の統計とは無間系とは言えないし、おそらくは横ばいなんじゃないかと思います。

 

 またブログ主は、ヒアリングを根拠にしていますが、相談に来る時点で有為的なうえ、普段の記事の内容からも「結婚」について考えている人が集まりやすい状況に思えます。その時点で、すでにフィルタリングされているわけですから、そこから確証バイアスを導き出してしまう可能性は高いです。

 

 私は今の20代にかつてのような結婚願望が振れ戻るならば、それはジェンダー観が定着したからではなく、たんに幅広い情報から隔絶される層が出てくるからだと考えています。今の若者は情報技術を狭い世界の結束のためにも利用します。

 たとえばラインで「○○が結婚した」という情報があれば、仲間内であっという間に駆け巡るわけです。その結果、同調意識から局所的な結婚ブームは起こるでしょう。

 

 しかしながら、そういった閉じた情報から外へ目を向ける機会を得られる人は一定数いるので、そういった人は依然として結婚に慎重であると思います。



 しかし、これも一個人の、それも学の乏しい人間が考えた絵空事です。重要なのは、だれが正しいということではなく、眼前に広がる景色とそれに続く地平線に思いを馳せることです。

 

 時代が間違っていた。風潮が間違っていた。人が間違っていた。

 

 そういってしまえばたやすいでしょう。しかし、そう論じることで欠落してしまう個人の声に耳を澄ませることこそが必要だと、私は思っています。