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ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

知識と結合

 知識は持っているのに、それが問題解決に役立たないという話を聞きました。例えば、数学の公式や英語の単語は知っているのに、それを試験でひねった感じに出されると答えられないといようなことです。

 

 知っているのに問いが変わった形で出されると答えられないというのは知識を結合させる力が弱いということです。

 たとえば、「カラスは鳥で黒い」という知識があったときに、「黒い鳥はなんですか」と聞かれれば「カラスです」と答えられます。

 

 しかし、「該当のない暗い夜道で羽ばたく音がした。その方を向いてみると暗くて種類までは断定できなかったが、鳥が木々の間を縫うように飛んで行った。さてこの鳥はなんだろうか」という質問だとすんなりカラスが出てこないということです。

 これは、カラスは黒い鳥である。という情報と、夜は黒が見えにくいという情報が上手く結合させることで答えが導き出せます。

 すんなり答えが出ない人は、カラスが黒いということを知らないのではなく、カラスの黒さと夜の暗さが結びつかないだけなのです。

 

 そして知識の結合力は一長一短では身につかないものです。なぜなら、結びつけるには適切な知識を身に着け、そのうえで知識の間にある明文化されない流れのようなものを見つけ出す必要があるからです。

 流れが見えてくると、知識の「似ているところ・全く似てないところ」が分かるようになるので、知識同士を「まとめる・ぶつける・代用する・一部だけ借りる」といったことが出来るようになります。いわゆる応用力というものですが、これは知識量と抽象化力、推論力が求められるのです。

 このさらに結合力があったとしても、知識が誤っていると間違った結合をさせてしまいます。たとえば、さきほどの「夜に見た鳥はカラス」は間違っているかもしれません。なぜなら、黒い鳥はカラスだけではないし、カラスは昼に活動することが多いためです。しかし、通った道の近くにカラスの巣があるという情報が追加されれば、また結論は変わってきます。

 このように、いくら抽象化・推論力があっても前提となる知識が間違っていると結びつきも変わってしまいます。

 

 間違った知識を前提に、強引に抽象化と推論をしてしまうと「妄想」と呼ばれるものになりがちです。

 ある分野では知識が豊富で素晴らしい結合を導き出す人でも、全くの別分野では偏狭で浅い答えを導き出すことがあります。それは知識の足りない状態で強引に抽象化と推論をしようとするためです。

 

 もちろん、抽象化と推論自体は素晴らしい脳の働きですから、それ自体を否定するものではありません。私は妄想が大好きです。さまざまな知識同士を幅広く受け入れられている定義にとらわれず、自由に結び付け、置き換え、発展させていくのは何とも楽しいことです。

 

 しかしながら、誰かと対話をするのを前提とするならば、妄想になってしまうのは、あまり良いとは言えません。なぜなら対話は知識の合意を確かめる側面があるためです。つまり、より多くの人が合意している知識を元に考えないと対話が成立しないのです。正解のある試験はとくにその性質を問われます。

 

 ですので、正しい知識を蓄えること。その知識を可能な限り分解すること。分解したパーツをどうやって使うか考えること。これを繰り返していかないと「問われたことに答えられる」段階までは辿り着くのが難しいのです。

 

 知識を蓄える。これは日々コツコツとやるしかありません。ですが、コツコツやれば確実に伸びていくものです

 結合力の高めかた。これは面白がることです。得た知識をいろんな角度から見て、ここは分解できるんじゃないか、ここはこういう使い方も出来るんじゃないかとワクワクしながら想像することです。

 そのうえで、思いついたことを試せる環境が必要です。失敗してもオーケー。とりあえずやってみようと思い、実践を許してもらえる場が必要です。

 学生はまさにジャストな環境なので、どんどん知識を得て解体して使ってみて、間違えるのがよいでしょう。社会人は仕事でそれをやると損害が発生することもあるので、ある程度の枠を決める必要があるのは仕方ありません。しかし、損害の小さい仕事やスキマ時間、趣味で試行錯誤はできます。例えば、DIYなんかしてみると、この素材はこういう風に使えるかも、なんて考える必要があるので、なかなか結合力の訓練になります。

  そんなことを続けているうちに、体に染みついた知識たちが自然と手を取り合って輪を作り出す瞬間が来ます。なので焦らずに知識を集める。集めた知識をこねくり回す。といことを繰り返していけばいいのだろうと思います。