洗濯物が揺れている
窓の外を眺める。洗濯物が揺れている。
その光景を眺めていると、タオルにくるまれている猫を見ているような気分になる。干された洗濯物が揺れる姿に、穏やかな感情を抱くのは私の感情複合なのだろうか。家庭的なものにたいする情動。でも、「洗濯物を干す」のが「家庭的」かというとやっぱり疑問が残る。
私が汚した私の服を、私が洗って私が干して、のざらし。
そういうのが、なんとなく「いのち」っぽくて好きなのだろう。
小難しいことはあまり考えたくない気分だ。
梅雨の晴れ間に、はからずとも早起きが出来て洗濯する時間が取れる、なんていうちょっとしたラッキーが人生にはポツポツと落ちている。
朝の家事をすませ、シーシャと紅茶を用意して、味わいながらぼんやりする。
思い出したようにブログの続きを書く。
一行書いてはぼんやり。
さいきんは、ぼんやりもワクワクもドキドキも、ずいぶんフラットになってしまった。それらの感情が小さくなったわけじゃなくて、観測できる範囲に入ってきてしまったので、相対的に小さく感じている。
感情や思考の勢いが無くなってしまったら、生きる気力がなくなるかなと思っていたけれど、そんなことはなかった。観測できる範囲で遊ばせておくのも、それはそれで楽しいものだ。いざというときに、すかさずキャッチできるという感覚をもつと感情や思考と向き合いやすい。キャッチャーインザライ。
今の状態は、感情や思考を無意識に均したり膨らませたりしていたころよりはいいかもしれない。この状態がいつまで続くか分からないけれど楽しんでおこう。
そうなった理由は、生活習慣の変化と投薬と、あと認知改善とか、まあいろいろあると思う。といっても「何をしたから変わった」ということはなくて、ただ今までずっと準備してきたモノを駆動させるパーツがやっとハマったような感覚だ。
とうめんはこのフラット状態を乱す要因を極力排除していくことと自分の操作性が増したので色々と試してみることを目標にしていこうと思う。