ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

チーズぶっかけときゃいい

 先日、話している相手の鼻毛が出ていたら指摘するか否か、という話をした。鼻毛は対面したときに否応がなく目につく場所にあるが、本人では絶対に気付けないという絶妙な位置取りをしている。

 これはなかなか面白いジレンマを抱えていて、指摘しなければ相手は気付かないため、自覚して「気付いてたならいってよ!」と非難されることがないかわりに、指摘がなければ別れるまで鼻毛と付き合わなければならない。

 

 鼻毛の乱れに耐えて和を保つか、和を乱して鼻毛の乱れを正すか。難しい問題である。

 

 ちなみに私は指摘をしない。鼻毛が出てても大して気にならないからだ。たかが数ミリのことで、顔の面積比率から鑑みてもそれほど重要度の高い要素には思えない。鼻毛一本を指摘するなら、道理として「鼻が高いね」「目は丸いね」「唇はがさがさだね」と言って回らなければならないだろう。小さな欠点をわざわざあげつらうとは、まるで障子の枠を指でなぞって「掃除がなってない」と嫁いびりをする姑のようだ。

 とはいいつつ、自分の鼻毛はせっせと鼻毛カッターで切っているので矛盾しているけど。まあエチケット違反っぽいからやっている。他人に余計なジレンマを与えるのはよくないだろう。

 

 いちおう全く指摘しないってわけじゃなくて、ある程度の親密さがあれば指摘をする。具体的にいえば、「この人のまえで恥をかいても平気だ」と思える相手だ。相手もそうであってほしいというのは傲慢ではあるが、勝手にそこを基準としている。ようするに、心の距離感と鼻毛の長さは比例しているわけだ。

 

 うん、適当なことをいった。

 

 鼻毛が伸びてるのがエチケット違反だとして、それを指摘するのもなんだかエチケット違反な気がしている。気付かずにその場が終われば誰も傷つかないのでいいじゃないか。

 

 こういうのは、ようするにさじ加減なんだろう。

 大皿料理が着たときに「なんかこれ味薄いな」と思ったとしても、「これ味薄いねー」と言い出せるかどうか、あまつさえ「薄いから醤油かけるね」と言えるかどうかということだ。

 

 ちなみに父は黙って容赦なく醤油をかける。私にとっては父がエチケットのない人の一つの基準だったりするが、靴とスーツと髪はいつも完璧にビシッとしているので、全てにおいてエチケットのない人は、そうそういないのだと思う。結局は個々人のさじ加減で、「私にとってはマナー違反だ」を擦り合わせあっている。

 私は、そういう機微のようなものを読み取れないので、地雷原をパーティーロックアンセムしながら歩いているようなものだ。

 

 今日の夕飯は作ってみたら味が薄かったので、「チーズぶっかけとけばなんとかなるだろ」とチーズを大量に入れて食べた。おいしかった。

 元来がこういう人間であることを、ゆめゆめ心に刻んで生きていきたいと思う。

朝から美術館に行った話

 早起きしたので美術館にいった。以前、シーシャ屋で出会った方が出展している展覧会をみるためだ。

 私はくしゃみと同時に出てくる鼻水みたいに、勢いとタイミングで生きてるので、ときおりこういった衝動的な行動に出る。いや、もちろん、まったくのテキトーで思いつきってわけじゃなく、前々から行きたいとは考えていた。

 

 本来だったら出展者に「19日の朝にうかがいますー」って言っておけば手間がなくていいのかもしれないが、私は予防線と布石を置くことに関しては諸葛亮公明をも凌いでいると自負しているので、「万が一寝坊したらいやだなー」というまったく手前勝手な懸念のため、なんにもいわずに当日の朝を迎えたのであった。

 当日の朝になって、出展者からシーシャ屋について尋ねるメッセージが来てたため、そのついでに行くことを報告するというヘタレっぷりである。

 

 平日の朝の美術館なんて誰もいないだろーと思ったら、意外にそうでもない。数メートル間隔には人がいて、駅から美術館までの道は「人の流れ」といって差し支えないほどの交通量があった。

 流石に働き盛りと思しき年齢の人は少なかったが、ツアーらしき子供やお年寄りの集団にはよく遭遇した。私にとって美術館は「作品を見に行くところ」という印象だが、見方を変えれば「観光地」なんだから、そりゃあこういう光景にも納得である。

 

 ババーンとデカい看板で宣伝しているような主たる展示には、開館待ちの行列が出来ていた。この行列はは美術意識の高さによるものなのか、それとも観光意識の高さによるものなのか。いや、区別することに意味はないのだろう。

 

 小学生のころ、遠足で美術館に連れていかれ、ハンバーグオムライスの付け合わせに「ひじきの煮物」が出たような気分になったけれど、行ってみると案外楽しいものだった記憶がある。ひじきの煮物も、食べてみればおいしいものだ。

 反対に転げまわるほど楽しみでいった修学旅行のディズニーランドは、入園30分ぐらいでフリーパスをなくしたので、人生観が歪むほどつまらなかった。いや、フリーパスがないなりに工夫して遊んだので、歪むってのは冗談だけれど、なんとなくディズニーランドが苦手な理由はそれかもしれない。

 なにが目的で、なにを得るのか。どんな期待をしようとも、観光地は万人のために開かれているし、また思いがけない形で拒絶する。

 

 そういえば、かつて初対面の人に「毎週末に美術館へいって、そのあとスタバでマックを開いて感想ブログを書いてそう」っていう煽りのような、ギリギリラインの人物評価をいただいたわけだが、ニアミスのようなことをしているのでなかなか鋭い指摘であったと思う。

 

 行列をつくる老人たちを後目に会場へ向かう。

 老人や子供が行楽しているのを見るのはいいものだ。行楽はそれなりの余裕がないと出来ない。老人や子供のように生物的に弱い立場の人が、安心して観光できるというのは、社会が機能を果たしている証明だ。もちろん、不備はたくさんある。しかし、今の社会のありようが、まったく無駄ではないと思うと希望がもてる。

 

 会場につき、受付に話しかけた。展覧会の名前を確認し、相手の反応を待つ。受付は少し困惑しているようだった。それもそうだろう。厚生労働省の基準でいうところの青年期ではギリギリあるが、小さな子供から「おっさん」と言われても「仕方ないか」と納得してまえる年齢に差し掛かってるぐらいの男が、平日に開かれる展覧会の初日、しかも開館早々ににぼーっと突っ立っているのだから。

 

 十数秒の沈黙が流れ、「えっと、出展者の方ですか?」と問われた。

 

 女性アーティスト限定の展覧会だったが、トランスジェンダーの可能性も含めた質問だと気づいたので「一般参加です」と答えた。

 しかし、それでも一瞬、私の思考は止まってしまった。言いようのない違和感が、理性を無視して体の中に流れた。

 トランスジェンダーは普段からこういう思いをしているのだろう。生きにくさもストレスも、私が想像しているよりずっと大きいのだと思った。相対化して私は恵まれているという言葉は不適切だが、それでも自分がいかに「のほほん」と生きていられる立場であるかを実感した。



 私はへったクソな字で芳名帖に記入すると、会場内へと入った。一番上があんな死にかけたミミズのような字なら、後の方々は余計な気負いなく記帳できるだろう。朝から善行を積むのは気分がいいものだ。

 

 会場には絵画だけでなく、ドレス・球体関節人形・フェルト人形・カバン・ゴーカートなどがあり、私の好きな雑多さと生っぽさを感じた。私は整えられたものより無軌道なものが好きである。

 

 40分ほど見て回ったあと、出勤の時間が来たため退館した。駅に向かう道すがら、参加のきっかけになった出展者とすれ違う。軽いやり取りをしたあと、電車に乗って会社へと向かった。

 

 電車に揺られながら「子供と老人を見て、アートを見て、仕事に行くってなんだか人生の縮図っぽい」なんて下らないことを考えていた。

 

えうれーか

 自己否定の対処法について、もう一つ低いレイヤーまで掘り下げられた気がしてます。相変わらず自己否定の波は来ますが、それが反省か、否定か、嫌悪かをある程度は区別できるようになった気がします。反省から来る嫌悪感と否定は、健全なので過剰にならない限りは許していいです。 嫌悪から湧いてくる否定さえ見分けられれば、より自分の思った通りに出来る気がしています。

 

 私は嫌悪から他人や自分を否定してはいけないという内罰意識が強いので、嫌悪ではなく一足とびに自己否定や自己反省までいってしまうため、ここを解体していこうと思います。

 嫌悪の深い原因もわかりましたが、これはもう少し寝かして考えていこうと思います。

 

 とはいいつつ、この発見を疑問視する気持ちもあって、それは私のバイオリズムによって論理が脚色されている可能性があるからです。

 大きな出来事が起こっていて、急激な気候の変化があります。その影響でバイオリズムが乱高下し、思考と判断力に影響を与えている気がします。昨日などは一日中、体が火照って少し動くとへたり込みたくなるぐらい疲れやすくなっていました。あまりにおかしいので「バセドウ病」を検索したりもしてました。大変なことになっているのに、手前の心配で手いっぱいです。

 

 そうとは思えば、今日なんかは変に活動的で、仕事が終わった後に人と会って、それから包丁と電子計量器を買いに行きました。

 その人には、改めて考えると不躾なことをしてしまったと気付きました。その場で謝りました。これは反省点です。しかし、必要以上に否定や嫌悪をせず、これ以上は相手の判断に任せればいいと思いました。関係を絶たれたり、距離を置かれたら、それは仕方のないことです。私は反省を次に生かせばよいでしょう。話したこと自体は非常に楽しかったし、学ぶことが多かったです。私の一方的な感想ですが。

 

 家に帰って適当に料理をしました。切れ味のいい包丁で料理をすると心地いいですね。料理無精の私なんて100円の包丁でいいかなと思っていましたが買ってよかったです。切れ味もいいですし、手が大きい私には大ぶりの握りがついた今の包丁がちょうどいいです。

 

 電子計量器はシーシャのために買いました。先日いったシーシャ屋でシーシャの奥の深さをさらに知り、私ももっとおいしいシーシャを作りたいと思ったからです。

 葉っぱのグラム数、炭の個数、蒸らし時間などを記録していって、自分なりの作り方を見つけていきたいです。データを集めるってのはけっこう好きなんです。

 

 あとスピーカースタンドをDIYする計画を立ててるので、モノや家具をワーッと退けてスペースを作りました。普段からは信じられないぐらい活動的で、もしかしたら異常状態じゃないかと訝しんでいます。ただ変な万能感はないし、思考や行動が上滑りしそうになっているのは自覚できます。やばいなーと思ったら、目を閉じて深呼吸をしています。たぶん大丈夫なんじゃないかと思います。

 

 というか、このぐらいの用事をすませるのって、一般的には当たり前のことなんじゃないだろうか。普通がどういう状態かはわからないけれど、このまま安定してくれたらいいと思います。

 

 とりあえず、しばらくは様子を見ていくつもりです。

あたまからっぽより、知恵あったほうがキラキラできるよね

 私の好きな落語の演目に三枚起請ってのがあります。

 

 以下、あらすじなので、知ってる人はスルーで。

 

 古典落語の廓話なのですが、ざっくりあらすじを説明しますと、起請文という誓約書があって遊女が客と「引退したら結婚する」という起請文を交わすのが流行っていたときがありました。本気のもあったのでしょうが、普通に考えたら今でいう色恋営業でした。

 3人の男が夜遊びの話をしていました。すると、それぞれが同じ遊女から起請文を貰っているということに気付きます。騙されたことに気付き怒った3人は、遊女に一泡吹かせようと作戦を練って遊郭にいきます。

 

 遊女は3人に問い詰められますが、「騙されるほうが悪い」と飄々と答えます。

 男の一人が「起請文に背くと八咫烏が3羽死ぬんだぞ」と非難するのですが、遊女は「3羽どころか、世界中のカラスを殺したいんだよ」と答えます。

 

 男は不思議がって尋ねます。

 

 「そんなにカラスを殺して、なにをしたいんだ?」

 

 「朝寝坊」

 

 落ちの意味は、都々逸「三千世界のカラスを殺し ぬしと朝寝がしてみたい」のもじりです。(話を単純にするために内容を変えています)

 

 

 以上、あらすじ終わり。

 

 男たちが、徐々に騙されたマヌケであると気づいていく流れも好きですが、終盤で男たちに追い詰められた遊女が開き直って啖呵を切りだして、最後にユーモアでしめるあの流れが一番好きです。

 

 この噺は、状況的にはドロドロしてるのに、ぜんぜんそんな感じがしません。暴力で懲らしめてやろうっていう流れにならず、知恵を使っていっぱい食わせようとする男たちと、それより一枚上手のウィットで切り返す遊女のやり取りが暗ーい流れを払拭しているのでしょう。

 

 ちなみに出てくる喜瀬川花魁は他の演目でも、トンチで客を追い払っていて、なかなかの手練れです。

 

 どうしようもない状況で、それでも知恵を使って切り抜けて、しかも笑いにしてしまうってのは素晴らしいです。けれど、言ってしまえばファンタジーだから出来ることです。

 実際には頭がクルクル回る日ばっかりじゃないし、明るいほうを見れないときもあります。でも、心の底のほうに、こういう意識を常に持っていたいです。

 

 頭からっぽでいいからキラキラしたいって歌がありますが、知恵があってもキラキラ出来るというか、むしろ知恵があるとキラキラ出来ない状況でもキラキラを取り戻すことが出来ると思うんですよ。

 

 例えば、三枚起請の登場人物がみんな頭からっぽだったら、「お前殺して俺も死ぬ」って男たちがやってきて、喜瀬川花魁もうまい返しが出来ず、その日の夕刻の瓦版に「吉原にて無理心中。男女4名死亡」みたいな悲劇的な見出しが載ってたと思うんですよ。

 

 頭からっぽだと、物事を一つの方向しか見れません。いろんな方向から見すぎて焦点がぶれるのも危ないんですが、焦点がぶれてないのも危ないです。知恵とは、余裕です。そして、人生に冗長性がないってのは怖いことです。

 

 金がもうかれば何でもいい。パートナーがいれば何でもいい。

 

 人には、ある程度の行動原理があってもいいけれど、「もし、それがない状態はどうなるんだろう」って想像力がないと、実際に無くなってしまったときに「もう終わりだ!」ってなって、ツマラナイことしか考えられなくなっちゃうと思います。

 

 もちろん、いくら想像を巡らせても勝てない価値観はあります。たとえ私に「かわいい」がよく分からなくても、世の中の金を持っている人たちは「かわいい」に消費します。だから、納得がいかなくても「かわいい」を利用した生存戦略を取るっていうのは間違っていないでしょう。

 

 でも、向いてない人がいるし、やりたくねぇ人もいるし、かわいくい続けられない人もいる。じゃあ、そういう人たちが「かわいい」の世界で笑って生きていくには、やっぱり知恵と知識、広い視野なんじゃないかな思います。

 

 三千世界のカラスを殺し ぬしと朝寝がしてみたい

 

 あなたが交わした起請文を全部破って、あなたと一緒になりたいって内容です。よくもまあこんなフワッフワした口説き文句を言えるなぁーと思いますが、私はちょっと違う解釈をしてます。

 

 三千世界は全世界よりも広大で、いろんな世界の集まっている状態を指します。これは個々人の内面にある世界が、連なりあって出来る社会のようです。

 

 私たちは生まれた瞬間から、誰かの思惑によって一方的に起請文を書かされています。それを一つ一つ破り去っていけたら、どんなに痛快でしょうか。

 

 押し付けられた起請文を破り捨て、静かになった世界でゆっくりと眠れたら、どんなに素敵でしょうか。

 

 起請文に雁字搦めになっているのは私です。

 起請文を破れるのもまた私だけです。

 

 もちろん、一人の力では破れないような強い起請文もあるでしょう。破ってはいけない起請文もあるでしょう。

 

 破ろうとしても破れなかったり、破ってはいけないものを破ってしまったり、大切に保管してたのに破れてしまったり。

 

 人生はファンタジーじゃないので、三枚起請のように綺麗なサゲはつかないです。

 

 それでも知恵とユーモアをもって生きていきたいと思います。

 

承認欲求の話

この間、ちょっとした縁でコスプレ活動をしてる人と話した。写真集を出すというので、「売れるといいですね」と言ったら「売れなくてもいいんですよ。承認欲求を満たしたいだけなので」と言っていた。

「なるほど」と感心した。承認欲求を満たすついでにお金儲けをするというのは素晴らしい発想だ。一石二鳥である。

頭では理解してたが、実際にそれを実践している人の言葉を聞くと納得の度合いが変わる。
もちろん、承認欲求は特になくて仕事としてやっている人もいるだろう。どっちでもいいのだけれど、私は承認欲求をあまり自覚しないので、結びつけて考えている人の意見は参考になった。

私にも承認欲求はある。

ただ心の底に「私ごときが承認されるわけがない」という諦めのようなものがある。

だから承認欲求を抑圧しているうちに、見失ってしまったのだろう。
その分、承認してくれる人を見つけると徹底的に甘えてしまう。

これはあまり良くないことだ。

甘えを一人にだけ向けたときの重圧は、甘えられた相手の身動きを取れなくする。それに重圧に見合ったものを返せるわけでもない。負荷は分散したほうがいい。

承認されるのが当たり前だ。

そういう「世界にたいする信頼」のようなものを取り戻さない限り、私は健全な人間関係を築けないだろう。

その点で承認欲求とコンテンツを結びつけるという発想は素晴らしい。コンテンツの完成度を保つためにも、必要以上に甘えられないし、承認の対価はコンテンツの消費という形で達成される。

アイドルや風俗の仕組みがよく分からなかったけれど、こうやって文章にしてみると合点がいった。
というか、文章にしないと分からないってのも、なかなか面白い。それに希望が見える。

文章にしなくても感覚でアイドルを理解できる人が大半だろうけど、そうじゃなくてもいろんなやり方で実感することが出来るのだから、諦めずにさまざまな方法を試してみる価値がある。

だからといって、すわネットアイドルデビューなんてことはしないけれど、なるべくいろんな人と会って、受け入れてもらえるという感覚を得ていきたい。

そして、受け入れられることを望むだけじゃなく、受け入れられたことへの対価を払えるように自分の価値を高めること。

他人をただ許容するだけではなく、見合った対価を受け取っているかを考えるようにすること。

その上で、私に多くの価値をもたらしてくれた人に責任を持って報いる。

ここら辺が出来るようになりたい。


じゆうのはなし

立ち上がれJKという言葉を見た。
膝を折った女子高生が、必死に戦おうとするイメージが思いつく。
でも、ふと不思議に思う。
私は女子高校生ではなかったが、私が高校生のとき、同級生の女性はそんなに弱かっただろうか?
女子高校生なら痴漢されて当たり前のか弱い存在だったか?
確かに社会的には弱い。お金も自由も権利もない。未成年は男女関係なく未熟だ。でも、それぞれに深い宇宙を湛えた人間同士だった。その自由さは誰にも侵害できるものじゃなかった。

若かったから間違ったこともしたけれど、ただ蹂躙されるようなか弱い存在じゃない。

みんな真剣に考えて必死に生きていた。私たちは私たちなりに強かった。立ち上がらなくても、ちゃんと立っていた。

女子高校生は当たり前に痴漢される存在じゃない。

美しくて若くても痴漢されない人はいる。そこには理由なんてない。理由があるのは痴漢をするほうだ。たまたま痴漢ができる酷い人間が近くにいたから痴漢をされただけで、可愛いからとか、若いからとか、露出が多いから痴漢をされたという考えは狂ってる。

テレビを見ていた。
児童養護施設の番組で「お母さんに会いたくないの?」とスタッフが聞いていた。

なぜ聞くのだろう。

会いたいか会いたくないかは本人が決めることだ。わざわざきくまでもない。
会いたければ、本人がなんとかして会うだろう。親と会うことだけが幸せじゃない。

幸せは十人十色だ。私の友達にも両親と決別した人はいるけれど、とても幸せそうだし、私より社会的に成功している。会いたいどころか、会わないほうがいいと言っている。

高校の頃、サウナにハマってよく行っていた。そこで知らない男性に「にいちゃんガタイいいな。モテるだろ?」と聞かれた。

わけがわからなかったので適当に相槌を打ったが、いい気分はしなかった。モテるかどうかを他人にジャッジされるのは不快だ。

どんな体格でも、たとえ身体欠損があっても、モテる人はモテるし、モテない人はモテない。誰かが一方的に、決められるものではない。

人は体の制約から自由だ。

酔っ払った女性と男性が一緒に帰るとお持ち帰りと表現する。
やはりピンとこない言い方だ。
酔っていれば男女関係なく開放的になる。それを一方的な形でお持ち帰りと表現するのはおかしい。
全ての人は自らの自由な選択で誰かと肉体的に通じ合うことが出来る。


マウンティング的な価値観の決めつけが世の中には溢れていて、なんでだろうと不思議に思いつつも、正体には気付いていて言いようのないモヤモヤを心に持つ。

女子高校生は痴漢されるか弱い存在でなければいけないし、養護施設にいる子は親に見捨てられた可哀想な子供じゃないといけないし、若くて体格がいいことはモテないといけないし、酔っ払った女性は口説くチャンスじゃないといけない。

そういった決めつけは誰かの都合の良さの上に建っていて、その都合の良さこそが今の社会を作っているのだろう。

社会は、世界は、もっと自由で開かれているのに、それを阻止する力が強い。私はその力の前に無力だ。

それでも私は、小さな石を転がして遠くの地で竜巻が起こることを願って生きていく。

私は自由だ。貴方も自由だ。誰かの言葉に定義されることはない。

ころす

 私は闘争が怖いです。私の欲求と誰かの欲求がぶつかり、キナ臭さが漂ってくると私は体が強張り思考が鈍くなってしまいます。そして結局は相手が望むことを勝手に推察して、その通りに行動してしまいます。

 

 かつて私は粗野な子供でした。いわゆる問題児で、親が何度か学校に呼ばれもしました。これはいま思うに闘争を模索していたのだと思います。しかしながら、私の闘争はただの暴力でしかありませんでした。この場合の暴力は、身体的ダメージを与えるものを指すのではなく、あらゆる社会的には認められにくい力の発揮の仕方を指します。自傷行為、深夜徘徊、飲酒、喫煙、薬物依存、エトセトラエトセトラ。

 

 暴力はひたすらに抑圧されます。暴力を使うたびに否定され、自尊心を失っていきます。これは教育として当然でしょう。暴力を使うものを矯正するために教育はあると考えられているのが普通です。

 私の両親は、正しく強い人間です。社会的にも成功しています。私はその強く正しい人からの教育に耐え切れませんでした。私は日々減っていく自尊感情とそれを補うための自己愛を肥大化させ、そして全方位に暴力を振りまいていました。

 青少年ごろの視野の狭さではそうやって生きていけましたが、今は少しだけ視野が広くなってしまったので、もう自己愛と暴力では生きていけなくなってしまいました。多くの人は、自己愛や暴力の問題を抱えていないし、抱えていてもある程度はコントロールしていると気づいたのです。

 

 私は多くの人と同じように自己愛と暴力をコントロールしようと考えました。しかし、そのことに気付くのが遅すぎました。多くの人は思春期に「なぜ疎外されるのか」を考えて、自己愛と暴力に気づいてコントロールをし始めます。(もちろん、自己愛や暴力とは無関係の本人に原因がない疎外もありますので、短絡的に自己愛や暴力的な人間だと判断するのは危険です)

 

 あるいは、気づかなくてもいいぐらいに、正常な自己愛と闘争性(社会的に認められる力の誇示)を持っているのです。

 

 私はすでに「済ませた」人たちのなかで、自己愛と暴力の問題に取り組み始めました。周囲ではどんどんと闘争が起こっているなかで、私はまだその前段階だったのです。

 

 闘争とは水の流れのようなものです。力が高いところから低いところに流れたとき、そのままにせずに抗うことです。闘争は必要です。闘争をせずに流れる力をそのままにすれば、ただその圧力がより低いところに流れていくだけです。

 

 私はおそらく、その状態にあります。自分を守るために全方位に向けていた暴力と自己愛性の高さを捨てたため、ただ迫ってくる強い力(言葉、態度、立場)を受け入れて、逆にぶつけられる弱い場所に流しているのです。

 

 これは全方位爆撃をしていたころよりももひどいでしょう。誰も彼もを見下して殴りかかっていれば、だんだんと社会に疎外されて野垂れ死ぬだけでした。わかりやすい核マークがついていれば、誰もが早い段階で気付いてくれるので、誰も傷つけないで済みます。

 

 しかし私は、流しやすい相手を見つけて、水を流すようになってしまいました。核の危険性を丁寧に隠ぺいできる能力を得てしまいました。たんてきにいえば甘える相手を選ぶようになったのです。

 

 もちろん、甘える相手を見つけるのは大切です。甘える相手がいないと全方位への暴力と自己愛に陥ってしまいます。甘えをなくすことは出来るかもしれません。ただそれは、他者への執着を一切断つ必要があります。これはブログを書いてる時点で無理ですね。私は他者への執着が低いですが、まったくないものとして生きていけるほどの魂は持ち合わせていません。だから私は健全に甘える相手を見つける必要があります。

 

 しかし問題は、甘える相手への水量がコントロールできない点です。原因は高いほうから流れ込んでくる水に抗うすべを持たないからです。高いほうから流れてくる水をすべて受け入れてしまえば、その分だけ甘える相手にも水が流れてしまいます。ある程度は溜めることが出来ますが、根本的な解決ではありません。いつかはどこかに流れ込むか、自壊するかです。

 

 だから、流れ込んでくる水と戦わなければなりません。闘争は自分の権利を守ると同時に、自分を甘えさせてくれる人の権利も守れます。

 

 これは私がずっと疑問にもっていた社会的成功の価値にもつながることです。なぜ社会的成功を手に入れることが大事なのか。それは闘争をするときに負けないためです。社会的に成功すると力が流れ込んできにくくなるし、流れ込んできてもお金だの立場だので解決できます。

 かつての私は社会的成功がなくても生きていさえすればいいと思っていました。生きていけるだけの最低限があればいいと思っていました。酸っぱい葡萄ではありますが、成功しても今の生活とそんなに変わらない気がしたからです。

 

 でもそんなことはないですね。常に力は流れてくる可能性があります。悪意があっても悪意がなくても、自分でも他人でも、力はある日突然に降ってきます。それは内在する要素だけで解決できるものもあれば、そうでないものもあります。内在する要素で解決できないときは、社会的に解決するしかありません。そのときに社会的成功をしていれば、様々な手段が取れるのです。

 

 私は解決できない問題があっても、自分の精神性でなんとかなるという意識が強くありました。

 

 でもその自負は誤っていました。私は自覚せずに誰かに寄りかかっていたのです。それは貴族文化に似ています。貴族はとても華やかな文化を作りました。でも、その裏には寄りかかられた沢山の人々がいたのです。誰かに寄りかかり、純粋な精神性だけを高めるのは楽だし気持ちがいいです。楽で気持ちがいいことは、多くの人から尊重されます。それが貴族が生み出したアートです。

 もちろん、寄りかかることは悪いことではありません。でも、寄りかかった分だけ寄りかかられてもいいように自分も強さを持たなければならないのです。そうしないと、ただの搾取になります。

 

 私は闘争が出来ません。闘争が怖いのです。だから闘争を仕掛けてくる相手には譲り、闘争を仕掛けてこない相手には甘えます。

 

 私はこの心理を変えていきたい。闘争を仕掛けてくる相手に立ち向かって、闘争を仕掛けてこない相手に負担をかけるのをやめていきたい。

 

 生きているだけでいろんな闘争が降りかかってくる。闘争に負ければ何かしらを流し込まれる。その帳尻はけっきょく自分か、自分を甘やかしてくれる誰かがすることになる。

 

 今日、闘争に負けた。私は弱い。闘うのが怖い。だが、闘争に負けたことを自覚している。これはきっと進歩だろう。負けを内面で解決してしまうのをやめよう。私は水を流し込まれたのだ。

 

 「そんなことどうだっていいじゃないか」

 

 この思いが根幹にあるのは認める。私は自分の欲求が通らないストレスを抑圧するのがうまいのだ。

 けれど、私のことを「どうでもよくない」と思っている人が少なからずいるし、私はその人を利用してしまうから負けたことを抑圧で片づけてはいけない。負けを認めて、負けないように工夫してこそ誠実な付き合いだ。

 

 負けを意識に刻み込む。ゆっくりと根付かせたそれが、芽吹くことはないかもしれない。精神性は容易に変わったりしない。だから同じように闘争を仕掛けられても、また負けてしまうかもしれない。

 

 闘争を回避する意識をどうやって変えればいいのか分からない。これは自分で考え、見つけ出すしかないだろう。自尊心や成功体験の積み重ねが関わっているのは分かるが、それらの積み方がよくわからない。

 

 ただ「負けた」ということをきちんとストックしていこうと思う。そのうちで傾向とか対策が見えてくるかもしれない。



 私は負ける。負けたからこそ、負ける人を、私も含めて負ける人を肯定できる。いや、違う。肯定なんて生易しい言葉じゃない。殺さないといけない。

 

 私は私を殺してきた全てにたいして、私の殺しのほうがマシだと証明する必要がある。全てを殺すのも、全てを殺さないのも間違っている。命は、ただ自分の殺し方が正しいのかを模索する。そうやってお互いの殺し方をぶつけ合って均衡を保っている。そんなシンプルなことすら、分からなかった。私は馬鹿だ。

 

 やってみようと思う。

 

 私は殺す。責任を持って。

 

 そんなこと出来るのかって不安だ。不安だけど、信じてみたい。信じるのは苦手だけど、頑張って信じてみたい。



 無理かな?