ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

人の意見で好きなものが変わるってことと、好きの度合いは無関係です。

 

 この漫画にたいして、「他人に批判されて嫌いになるのは本当に好きではない」みたいなコメントがついてて、いやいやそんなことないでしょーと思ったのでこれを書いています

 他人に批判されて好きなものが変わることと、好きの度合いってあんまり関係ないです。

 単純に自尊感情の話なんですよね。自分の決断が正しいって思えるのは、自尊感情が強いってだけです。

 それで自尊感情と好きの熱量ってあんまり関係ないんですよ。自尊感情が低いと自分が好きだっていう判断に自信が持てないってだけで、好きという感情自体は損なわれません。
 だから、他人の批判で好きなものが嫌いになった原因は、好きの熱量が低かったってことじゃなくて、自尊感情が低かったってことなんです。
 

 その問題の切り分けはちゃんとしたほうがいいです。自分の好きが足りなかったから、という内省的な話じゃないんです。原因は自尊意識の低さなので、その問題に取り組んだ方が建設的です。
そういう事情を無視して、「好きの度合いが足りないお前が悪い」みたいな考えを押し付けるのはよくないし、その意見を真に受ける必要もないよなーって思います。
 

 好きなものは好きな時点で完成されています。その正当性を証明する必要ってないんですよ。ただ他人に迷惑かけてないかな?って観点でだけ自省があればいいです。

 

 それで漫画の話に戻りますが、批判した友人は感動している主人公を「その程度で感動するの?」ってマウンティングしたかったのかも知れないし、あるいは楽しみにしてたのに裏切られたという負の感情を共有したかったのかも知れません。
 

 どちらにしても、主人公にたいして甘えたいという感情は見てとれます。そして甘えたいという感情は基本的に信頼している相手にしかできません。
 

 この相手には裏切られないだろうという信頼が産み出す甘えた思考による言動です。それは仕方のないことです。命は常に甘える対象を求めています。私はその甘えたい感情も肯定したいです。

 

 私は私を信頼して甘えてくれる人を肯定したいです。

 

 もちろん、出来る範囲でではありますが、その範囲を拡張していくことが成長なんじゃないかとぼんやりと思っています。

 

 なんて考えるから、自他の区別が着いてないとか言われるのかも知れませんね。

 

 

 そして、甘えられるほうにも限界があります。私は、これ以上甘えられたら無理だな、と思ったら距離を置きます。
 甘えに答えてくれる相手にたいして限界まで甘えるといった焼き畑みたいなやり方は、甘える方にも甘えられるほうにも無理を強いるので、今自分がどれだけ甘えてるかを自覚できるようになるといいなーなんて思います。

悪なき世界

 体罰を苦に自殺した人に「私の子供のころはもっと厳しかった」という人がいる。いじめを苦に自殺した人に「なぜ親や友人に相談しなかったのか」という人がいる。レイプされた人に「なぜもっと身の安全を考えなかったのか」という人がいる。

 

 それらの発言をする人はきっと正しいだろう。

 

 意見とは自分が培ってきた経験や知識の集約だ。そして、正しさとは経験や知識が主観的に判断したものでしかない。

 

 いじめを受けたことがない人生。あるいは、いじめを受けても様々な要因でトラウマを退けられた人生。そういった人生を歩んできた人にとって、いじめという加害はとても小さな出来事でしかない。これは性被害や体罰でも一緒だ。

 

 加害を受けなかったか、受けても排除できる能力や境遇を持った人にとって、「ただ黙って加害をうけること」は”不正”に映るのだろう。加害は当人の工夫で回避できるもので、回避できる工夫をせずに被害にあうのは当人の怠慢だからだ。加害にあわずに生きてきた人は、人生を自分でコントロールできるという自負をもっている。その自負が被害者に対しても発揮される。

 

 自分は正しく生きてきたし、他人もそうあるべきだし、当然そうできるはずだ。

 

 他人を容易に断罪できる人は、そういった考えを持っている。世の中には善と悪があって、自分は善に所属して生きていて、糾弾すべき悪が常にどこかにある。このように、自分が善の代弁者であると勘違いするのは危険だ。自分の判断と発言は正しく、それに他人が耳を傾ければ世の中が良くなると思い込んではいけない。

 

 世の中は極端に良くなったり、悪くなったりはしない。いじめも体罰もレイプも、いままでずっとあったし、これからもずっとあるだろう。それは学校に監視カメラを置いたから、インターネットにマイナンバー利用を強制したから、出会い系を違法にしたからといってなくなるものではない。姿形を変えて、同様のことは起き続ける。

 

 世の中には悪があり、その原因があると考えて悪の因子を取り除こうと尽力した指導者は沢山いたが、「悪のない世界」をもたらさなかったのは歴史が証明している。もたらしたのは、ただ混乱だけだ。

 

 つまり、善悪は個人の小さな世界でしか保たれないということだ。自分が善良で正しい人間だと思えるのは、そう思えるだけの小さな世界でしか生きていない。また逆に自分が悪辣で不正な人間であるという考えも小さな世界のことでしかない。その小さな世界に他人を付き合わせようとすると、当然に軋轢がうまれる。それが極まると支配や独裁になる。

 

 世界には幾重にも小さな世界があって、それらの世界の拙いつながりによって社会が構築されている。拙い通信網に頼ってうっすらとした価値観を共有し、かろうじて社会を運営しているだけに過ぎない。 だから、この世に共通理念としての善悪はない。とうぜん代弁者もいない。だれも善悪について語れるものはいない。

 

 ただ、誰かにとっては善に見える性質をもち、ほかの誰かにとっては悪に見える性質をもつ人間がいるだけだ。その点は、どんな人間でも変わりがない。信じる善も戦うべき悪も「そう見えている」だけで存在していない。

 

 善悪はただ「納得するため」だけにある。

 例えば中学生が無残に殺される事件が起こったとき、その強烈な出来事を社会性の高い人間は身を切られる思いで受け止める。そうやって受け止められるのは、人間の素晴らしい性質ではあるが、同時にそのストレスをどうやって処理するかという問題に直面する。そのときに善悪は持ち出される。

 

 「悪い人間がいたから犯罪が起きた」

 

 そう考えることで、善なる自分を事件から分離することができる。あるいは、その考えを発展させて「被害者の素行も悪かった」という判断も加えれば、痛ましい事件と自分をより深く分断できる。そうして「自分はそうならないように善良な人間でいよう」という決意を新たにする。

 

 世界中で起きている「痛ましい出来事」は全て社会の不備だ。そして、不備を作ったのは人類全体だ。だから、「善良な私・誰か」と「悪辣な私・誰か」といった分断は出来ない。すべての人の責任であり、また誰の責任でもない。

 

 そして社会の不備は誰か一人がなにかをしたところで変わらない。フォロワー10万人のアカウントがアフォリズムめいたことをツイッターで飛ばしたしても、政治家が人道的な政治をしても、資産家が私財を投げ打っても変わらない。

 

 しかし、変わらないからといって、私は考えることや行動することを放棄しない。

 

 何も変えられないと知りつつも、私は考え行動する。それは私が善の一員だから、あるいは悪の一員だからという超越的な理由ではなく、ただ生きているからだ。 

 私は安易に「善・悪」に頼って問題を片づけたくはない。かといって問題自体に取り組むことも放棄したくはない。

 そして問題に取り組むことで何か答えが得られたり、また自分や社会が善や幸福に近づけるという期待もしない。生きているから、考えて行動するだけだ。私は生きていることを、善悪や幸福という使い勝手のいい言葉でごまかしたくない。

 

 だから人に道を示そうとする人とは、注意深く向き合っていかなければならない。善悪や幸福や人生の答えがこの先にあると説く人は危険だ。それらは魅力的に響くけれど、存在しないものだ。存在しないものを説こうとするのは、別の目的があるか、見えていない(無視している)要因があるからだ。

 

 誰かが善悪や幸福や人生の答えについて語ると、その場にまばゆい光が差し込む。しかし、その光が明るければ明るいほど、生まれる影は濃い。私はその影までちゃんと見たいと望んでいる。

FFFに行ってきた

 これに行ってきました。

 http://firstfloorfestival.info/

 

 rastor-notonというテクノのレーベルがあって、そこのアーティストが来日してライブアクトしたのですけれど、顔ぶれがハンパなくて、行く前からテンションが徹夜明けみたいになっていました。

 

 開場が11:00だと思ってて11:20ぐらいに行ったのですが開いてないてなくて待ちぼうけ。開場時間が遅れたこともあってけっこうボーっとしてる時間が長かった。

 

 これなら前に居た水タバコ屋でもう少しグダグダしてればよかったなーと思いつつ、ほぼ一番乗りだったので人のいりをぼんやりと眺めていました。
 何の気なしに見ていると客層が普通のクラブと違っていることに気付きました。
普通のクラブってなんだって話だけれど、雑な表現をすると「遊びに来てる」って印象の人は少なくて、音楽聴きに来ましたって雰囲気の人が多かった。
 音楽を聴きに来た雰囲気って、わけのわからない表現だな。でも、上手く言えないけどそんな感じです。
 年齢層もファッションの幅も広かったですね。踊る人も少なめで、聞き入っている人が多かった。

 

開場直後の誰もいないフロア

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以下、アクトの感想

 

 

1.Open Reel Ensemble

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 テープレコーダーを使ってその場で多重録音しながら、逆回転させたり叩いて音を出したりとテープレコーダーならではの音を作る人達です。
 ライブみるのは初めてでした。音もすごいんですけど、目の前でテープレコーダーくるくるしてるのは視覚的にも気持ちがいいです。小さいころにテープレコーダー分解して軸に鉛筆さしてグルグル回して音出してたのを思い出しました。

 

2.Ueno Masaaki

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 ゴリゴリだー!ゴリゴリだぞー!テンションあがるぅう。

 

 ゴリゴリでテンションをあげてくるのですが、聞き入ってると底からじわじわと上がってくる気流みたいなのがあって、それに身を任せると緩やかに心地の良いステージにたどり着きます。スピーカーの横に齧りついて酔ってました。

 

3.KYOKA

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 硬質な音を作る方なのですが、どこか優しいというか、小さいころにやっていたリズム遊びのようにプリミティブな空気もまとっていて、ずっと聞いていたくなる音です。
 でもずっと聞いていても全く飽きが来なくて、聴いていると新しい発見をしたときの驚きみたいな、そんな気持ちが湧いてきます。
 もっと聞きたい、次はどんな音?って興味をそそられます。

 

4.GRISCHA LICHTENBERGER

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 準備中にDirectXの文字が表示されて、一人でテンションが上がってました。

 

 ギーク臭がするぞ!ギークの匂いには敏感です。

 

 DirectXは、鳴らしてる音の波形をリアルタイムで表示して映像作品にするのにつかわれていました。

 聞きながら踊ろうと思ったのですが、音を聞いて気持ち良くなる部分にリソースを全部持って行かれるようなカタチで、その場で茫然と立ち尽くして聞き入ってしまいました。

 気持ち良すぎて、感極まって泣いてました。ストレスの与えかたと解放の仕方が神がかっています。

 暴力的な音の中に繊細な表現が紛れていて、嵐の中に一筋の光がさすような、そんなビジョンが浮かびました。
 聴けて良かった。

 

5.全員集合

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 全員集合でした。お腹いっぱいです。

 

6.Yosi Horikawa
 環境音を編集して音楽を作っていく人です。

 タイル張りの通路でスーツケースを滑らせて歩くと、規則的な音の連なりが音楽に感ぜられるときがあります。
 その瞬間から音楽までのルートがきれいに構築されていて、「あ、知っている音だ」なんて耳を澄ませていると、いつの間にか音楽になっていました。
 音と音楽の境い目みたいなのが溶かされていきます。鳥の声や水の音が、オールで疲れ果てた体にしみるような心地よさをもたらしてくれました。

 

 

 いやー、楽しかった。

 そして、実は14日にもあるんです。さらに私は両日チケットを買ってしまったのです。

 

楽しみだ。

パワーゲームのお誘い

 最近、色んなことがあってパワーゲームの場に着いています。私は自己肯定感が低いのでパワーゲームになると相手に会わせてしまう性質があるのですが、もうちょっと戦えるようになりたいと思っています。

 悩んでいて相談をしてみると、私にもパワーがあって、それを認めて支援してくれる人が居るのだと教えられます。それはとても嬉しいことです。

 戦ってもどうせ負けるか、お互いに傷ついて最悪なことになるという恐怖は常につきまといますが、それらを払拭出来るほどに私を気にしてくれている人達がいるのだと思えば怖くないです。

 

 剣を持ちます。

 

 私が剣を持つと、沢山の人を傷つけるのだと思い込んでいました。というか実際に傷つけるでしょう。

 

 しかし、傷つけ合うという覚悟を持たなければ、適切な間合いを生み出せないのです。危機回避で私の欲求を抑圧することは、間合いを壊して相手に委ねることです。それは、一瞬の安寧をもたらしますが、大小としてながいスパンでじわじわとダメージを与えます。それが許容量を超えたとき、最悪の事態になります。

 

 辛さや恐怖を押し込めて相手に会わせるのは、私にも相手にも、私に近しい人も相手に近しい人も、結局はめちゃくちゃにしてしまいます。

 

 私は戦う覚悟をもつ必要があります。

 

 それは私の為であり、私を信頼してくれる人の為であり、また相手の為でもあります。



 パワーゲームはそれを迷彩しますが、惑わされずに自分の領域を、輪郭を、色を、温度を、間合いを、見出したいです。

 

 私は戦います。


 私は、パワーゲームに乗ります。

エピソード記憶とコンプレックス

 容姿コンプレックスについての記事を読んで、考えたことをまとめます。私はたぶん容姿コンプレックスはなくて、そりゃあ目の前に神様が表れて「マット・ボマーみたいな顔にしてやるけど、どうする?」って聞かれたらすごく悩みますけど、でも、顔が変わったら「今ある状態を全て投げ捨てること」になるので断るでしょう。

 

 私は容姿に優れているわけではないですが、それでも「この顔は私のIDである」という意識が強いです。なのでIDを捨て去れるほど、私にとっての容姿は価値をもちません。私の今の顔で、私のことを好きだと言ってくれる人が、そんなに多くはないけれどいるので十分です。

 

 そう考えられるのは、私が容姿に対して、具体的なエピソードをもたないからでしょう。

 私は容姿に関して否定された記憶があまりありません。あるはずなのですが、きっと記憶を改ざんしたのでしょう。記憶を改ざんできる程度には、些細なエピソードだったのだと思います。

 

 その反面、容姿に優れているのに、必死に容姿を求めている人は、容姿を否定されたエピソードがとても強烈なエピソードとして、精神の根底に居座っているのだと思います。

 

 「判断」の定着は、具体的な経験の反復による強化がもたらします。「私は醜い」という判断の裏には、沢山の「醜いと判断したエピソード記憶」があるのです。

 

 それでエピソード記憶の反復には、泥沼の様相があって、たとえば「電車に乗っていて隣の人が席を立って別のところに座った」という状況があったときに、容姿コンプレックスの強い人は「私が醜いから席を立ったのだ」というエピソードとして記憶してしまって、さらにコンプレックスを強化してしまうのです。

 

 これは発達障害にも言えることで、なにか失敗をしたときに「発達障害だからだ」というエピソード付けをしてしまうと、より発達障害であることに執着してしまいます。その反動で、「発達障害には天才的な人も多い」というエピソードに縋りたくなるのです。

 

 しかしながら、そのような心の働きは人間の自然な機序で、人間は経験をもとに判断をし、即応的に進化するという性質を持っています。

 

 そのために、失敗談やノウハウに対する欲求が強いのです。

 

 他の生き物にはあまり無い性質で、多くの生物は種の自然淘汰を単位として経験を継承するのですが、人間は記憶と判断によって短いスパンで淘汰を行います。

 いわば進化のシミュレーションを出来るのです。

 

 これは素晴らしい人間の性質ではあるのですが、当然にその反動もあって、素晴らしすぎるゆえに必要以上に振れ幅を持ってしまうのです。

 

 容姿は生命を継続していく上で、あまり重要ではありません。しかしながら、それを苦にして自死をしてしまえるほどに、人間のシミュレート能力は高いのです。

 「この程度の容姿なら自ら淘汰したほうが良い」と思える生物は他にいないでしょう。

 

 人間は高い知能を持つことで、生命の有り様を実際に作り変えなくても、ある程度は予測をつけることが出来るようになりました。しかしながら、その弊害によって多くの複雑な状況を生み出しているのでしょう。

 

 けれど、そんな弊害を払しょくできるほどに、高い知能も同時に持ち合わせていると私は信じています。



 「隣の人が席を立った」



 その状況で「私の容姿が劣っていたからだ」という意味づけをするのではなく、「ゆとりのある席に移動したかったのだろう」と意味づけをすることも出来ます。

 そうすることで、エピソード記憶のバランスは取れていくし、それが出来るだけの素養は誰でも持っています。なぜなら、エピソード記憶を強化できるのだから、その流れに逆らえるだけの力も持っているからです。

 

 もちろん、いままで培ってきた記憶から逃れるのは大変でしょう。私も容姿ではコンプレックスを持ちませんが、それ以外でだいぶ拗れています。

 

 それでも自分の知性を信じて、自分が楽になる道を模索するだけの能力はあるのだ、という希望だけは捨てないで生きていきたいです。

こんにちは。承認モンスター

 中学の頃の教師に「お前はお立ちバカだ」と言われたことがあります。私は意味が分からなかったのでたずねたところ、「目立とうとしてお立ち台に乗せられて踊ることだ」と言われました。たぶんジュリアナのことを言ってたのでしょうが、中学生にバブル文化なんてわかるわけないので、「なにいってんだこいつ」と思って聞き流しました。ただバカと言われたので、教師に面と向かってバカと言われたことはあまりなかった(怒るための台詞ではなく、冷静にバカと言われた)ため、印象的だったので記憶に残っていました。

 それで当時は、分からなかったけれど今になってみると、なかなか的確なことを言っています。

 

 私は他人の意図に乗りやすいのです。その意図にのって自分がどうなるかとか、相手がどうなるのかをあまり考えません。「○○やろう」と言われて、言った相手に好意をもっているなら、大体のことは応じます。

 

 私は中学の時に放送部に所属していて、昼に音楽を流していました。普段は放送室に置いてあったCDを流していました。クラシックとかカーペンターズとか、あとビートルズもあったかな?たぶん放送部顧問の先生の趣味です。私は毎日、同じ音楽をかけるので「くそつまらん」と思っていました。

 ただ毎週金曜日はリクエスト日になっていて、生徒が持ち寄ったCDを流してよくて、私はその日がとても楽しみでした。

 放送部は当番制で、だいたい二人でやるのですが、音楽流すだけの時間になれば機材をいじったりアナウンスしたりと忙しいこともないので、担当のうち一人が途中で帰ります。

 私は金曜日に誰がどんな音楽をもってくるのかを、いつも楽しみにしていたので率先して残りました。

 

 

 その日は、悪友が放送室にきました。校舎の裏で煙草をすっているようなヤツだったので、放送室にくるのは珍しいな、と思いながら用事をきくと、リクエストがあるとのことでした。

 そして持ってきたCDがオナニーマシーンの「恋のABC」です。タイトルから分かる通り、下ネタ全開の曲です。ペッティングとかセックスとか叫んでます。いや、曲はふつうにいいんですけどね。

 

 相手は「これ流して」とだけ言っていなくなりました。私は曲を知っていたのですが全く抵抗がなく、ただ「おもしろそう」と思ったし、友人も喜ぶと思ったので流しました。

 そしてその日、全校生徒は「キス・ペッティング・セックス」という歌詞を聞きながら給食を食べることになったのです。最悪ですね。

 

 でも、当時の私はそれの何が悪いか全然わかっていなくて、しれっと教室に戻りました。その後、教師に呼びだされて、事情を聴かれ、指導を受けました。

 めんどうな全部が終わったあと、友人に「マジで流したのかよ」と言われて、「うん、流した」と答えました。一呼吸したあと、二人で爆笑しました。

 

 私たちは閉じた世界に生きていました。

 

 私は普通に生きていると、なぜか人がドンドン離れていきました。それでも近くにいてくれた人たちは、ちょっとだけ平均からずれている人が多かったです。良い意味でも悪い意味でもです。いい悪いは違うか。ようするに生徒会長と不良とオタクが友達みたいな感じです。不良とオタクは排除されててわかりやすいけれど、生徒会長も普通の人はなりたいと思わないし、やっぱりどっか人とズレてる人でした。

 高校に進学したあとも、普通の平均の友達は出来なくて、進学校なのにタバコ吸ってバンドやってる人とよく遊んでました。そいつはイケメンで年上の彼女がいましたね。

 遊びつつもちゃんと勉強も出来る人で、たしかmarchのどっかに引っかかってたと思います。

 あと、リスカしてるマッシュカットの文学青年とかが友達でした。その子は大学にいってから一度だけ会いましたが、薬をジャラジャラ持ってて色々見せてくれました。

 

 「リタリンが規制されるので飲めなくなるから辛い」と言っていたのを覚えています。その時はリタリンどころか薬をぜんぜん知らなかったけど、意味を知らなくても覚えてて、あとで知ってから理解するってこと結構おおいですよね。

 

 私はそんなメンツの中にいても、「なんかコイツやばい」みたいな扱いをされていました。だから、重要なイベントに呼ばれなかったり、私だけ知らない情報があったりしました。まあ、自己愛が強くてプライドが高かったので、当然と言えば当然でしょう。

 

 私は友人が出来にくいし、出来てもどこか距離を置かれました。

 

 でも、そのことを自覚していませんでした。それに、気づいてもどうしたらいいか分からなかったでしょう。というか、今でも分からないです。

 いや、頭では分かっているんですよね。友人であるためには、その友達付き合いに見合う利益を、お互いに相手に与え合わなければいけないのです。

 

 それで利益というのは、それぞれがもってる幻想で、簡単にぶっ壊れちゃうんだけど、そんなよわっちい幻想を保障してくれるものがあって、それが社会的承認なのです。

 

 私が進学校のイケメングループに所属し続けるには、私も勉強が出来て、イケメンになる努力をしなきゃいけなかったのです。あの子たち、高校生なのにポールスミスとか着てたんですよ。家も医者だったり。私はユニクロだし、家は建築業でした。全然合わないのになんで遊んでたんだろう。

 

 でも当時は「見合わない」なんて、まったく考えていませんでした。遊んで楽しければそれでよかったし、それ以上のことはなにも考えていなかった。でも、相手はちゃんと考えていて、「この人間と仲良くするのはここまで」と判断していたのでしょう。それで疎遠になりました。でも私にとっては「いつものこと」でした。

 

 私は人間関係を構築すると、それが社会からどう見られるのかをあんまり考えません。楽しければいいという気持ちがとても強いのです。

 でも、私が楽しい状態というのは社会的にはダメっぽいので、もう「社会なんか知らない」状態になってて、それが長かったので社会的承認や社会的欲求に全く無頓着になってしまったのです。待遇のいい会社に入って、収入を増やして、会社では友人を作り、容姿・性格ともに納得できるパートナーを見つけて、結婚して、子供を作って、家を建てて、貯蓄して、あとなんだ、よく分からないけどベッドの上で死ぬみたいな。

 私はそれらが全部どうでもいいと思っていました。

 

 でもそれだと、社会的欲求を信じている人と仲良くできないのです。あと内面深くに抑圧した社会的欲求が、無意識のうちに悪さをしている気がするんですよね。だから最近は、それらとどうやって向き合おうか考えています。

 

 社会的欲求をインストールしたい。社会的欲求をインストールしたい。

 

 私は発達の段階で社会的欲求を信じるためのハシゴが外されてしまったので、どうしたらいいか分からないのです。というか、最初からハシゴなんてなかったのかな?

 

 私は私を好きだと言ってくれる人が好きです。私と仲良くなってくれる人が好きです。その人たちを排除してしまう理由の何もかも、例えそれが社会的な、一般的な価値では間違いだとしても、私はそれらを北極の永久凍土の中に埋め続けています。

 

 価値は他人から与えられるものだけど、やり方次第では「そうじゃない」って信じることもできる。

 

 私はそうしないと生きていけなかったので、実践した。

 

 私は他人からの承認がなくても価値を信じられる。けれど、その心を育てすぎたせいで、抑圧された承認モンスターが心の奥底で育ったのかもしれない。

 

 承認を欲していると自覚できないほどに承認を殺し続けてきたのかもしれない。

 

 承認を抑圧し過ぎたので、承認してくれそうな人がいると私は頭がおかしくなる。

 

 私は自分の都合を自覚していないし、相手の都合も理解しない。というより都合を理解しても無駄だとあきらめてる。理解しても大抵の人とはあまりにもかけ離れているからだ。

 だから承認モンスターが暴れるままに、相手に合わせたり自分勝手になったりしているのだろう。

 

 それをなくすためには自分の都合と相手の都合を知る必要がある。知るには、自分の心の奥底にもっと分け入ることと、他人と交流することだ。

 

 こんにちは。承認モンスター。私はあなたと向き合わなければいけないんです。

アニメーター見本市感想ーシーズン2−

roadsidefuse.hatenablog.com

前回の続き。

 

13.kanon

 早口でなんだか小難しいことをひたすら言ってます。押井守の「御先祖様万々歳!」に近い印象です。あれよりもはっちゃけていますが。クリエイターへのメタ発言とか暗喩とかあります。合わない人は合わない作品ですね。私は好きです。

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14.Sex&VIOLENCE with MACHSPEED

 かつて「パンティ&ストッキング」という、とんでもなく下品で卑猥なアニメがあったのですが、その作品を作った監督が同じノリで作っています。いわゆる精神的続編ってやつですね。絵がポップだし構成がギャグなのと圧倒的なノリの良さである程度は緩和されて見れますが、ひたすらに、とんでもなく下品です。ただネチョッとした下品さじゃなくて、さっぱりしているというか、子供がいう下ネタの心のまま大人の下ネタをしてるみたいな感じです。いや、下手な擁護はやめよう。駄目な人は本当にダメなのでドン引きする作品だと思います。

 エロ・暴力シーンあり。

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15.おばけちゃん

 濃いのが二つ続いた後の清涼剤です。おばけちゃんが、とにかくかわいい。ネットで見るショートアニメらしいです。

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16.月影のトキオ

 脚本が須田剛一です。ノリが独特です。展開は正統派なのに、ところどころで外してきます。「なんだこれは?」と思っているうちにアニメが終わっています。それだけ引き込まれるってことなのでしょうが。

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17.三本の証言者

 SFミステリーです。アニメーター見本市のなかでは珍しく落ち着いて見れる作品でした。ラストがちょっともやっとしました。

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18.オチビサン

 ストップモーションです。見ていたら「あれ?教育テレビにワープしちゃったかな?」と思えてきます。かわいいキャラがコロコロとよく動きます。「いやこれ相当大変だろうな」と思ってしまうところが、幼少期から変わってしまったところでしょう。

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19.I can Friday by day!

 かわいい、そしてアツい。思春期の少女の恋愛みたいな、「日常の姿」に壮大なSF設定を付けてヒネる系の作品は大好きです。日常から非日常の飛躍の仕方が突飛であればあるほどいいですね。私もイケメシウム欲しいです。

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20A.ME!ME!ME! CHRONIC

 MEMEMEのVJリミックスです。特に書くこともないですがVJとして見るならとてもいい映像です。

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20B.(Making of )evangel ion:Another Impact

 名前の通りメイキングです。私はCGが好きなのでボエーッとみてて楽しかったです。

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21.偶像戦域

 19とは打って変わって重厚なSFです。特殊な力を持った機体、謎の美女との記憶、人類を存亡を揺るがすような大きな秘密。いやいや、7分に詰め込みすぎですよ。お腹いっぱいになりました。シリーズでみたいです。

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22.イブセキ ヨルニ

 いきなり18禁表記が出てびっくりしました。確かにアダルト表現は出てきますが、たぶんそこじゃなくて、内容がかなり政治的でアジテートするからでしょう。これはネット配信じゃないと出来ないです。エロ・暴力・残虐表現有ります。

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23.鼻下長紳士回顧録

 アニメというよりはPVに近いです。動きに妙なローファイ感が漂っていますが、原作の雰囲気を生かすために敢えてそうしたのでしょう。

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24.神速のRouge

 二つの勢力が争っている世界の話です。甲冑を着ているのですが技術は現代以上という設定です。背景が素晴らしいです。ああいう背景を使って全体のトーンを落とすとCGっぽさがなくなるのですね。殺陣もよかったです。暴力シーンあり。

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というわけでシーズン2の紹介終わりました。

おすすめは「18.オチビサン」「19.I can Friday by day!」です。

 

そのうち3も書きます。