ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

生活のパイを分ける

 生活環境が変わるので、それについて考えている。

 仕事が忙しくてほとんど自分のことが出来ていないけれど、空き時間はたいていそのことについて考えている。

 支出が増えることになるので、いったん収支を見直したい。といっても収入は簡単には増やせないので、支出を見直すしかないだろう。

 

 収入を増やすことを考えてはいるが、あまり私には向いてないようで、思いつくのは数ヶ月プランで何かアプリを作って売るということぐらいだ。

 それも売れるかどうか分からない。そもそも数ヶ月で作れるかも分からない。個人の時間があまりないので、趣味や交際の時間を制作に当てるしかない。ただ、ものを作るのが趣味なので、制作をしながらストレス発散ということは出来るだろう。あとは売れるかどうかだ。

 

 私は自分で作ったものを売った経験がないので、今年はそれにチャレンジしようと思う。チャレンジといってもApp Storeあたりで開発者登録をして、アプリをアップロードして、あとは審査通るのを待つだけなんだけだから大したチャレンジでもない。

 

 別で即売会もやってみたいけれど、1日拘束されるのはなかなかしんどそうだから、二の足を踏んでいる。いやまだ売るもの作ってないから一の足も踏んでないけど。

 私は交流をあまり好まないので、即売会のそういった側面にあまり魅力を感じない。だから即売会は当分しないだろう。

 

 あと私は物理媒体よりも電子媒体が好きというのもある。

 ディスクの片隅にひっそりといて、ランダム再生やファイル整理などでふっと「昔コレにはまってたなぁ」と思い出すのが好きだ。物理媒体でもできるけれど、それをするためにデッドスペースを作らなきゃいけないから、あまり好きではない。

 

 大量の情報の海を泳いで、ときおりイルカに遭遇するような、そんな楽しみ方をできるのは電子媒体だけだ。

 

 話が脱線した。支出について考えていると、支出をどう抑えるかではなくて、何に使うかを具体的に考えるほうが大事だというのがわかってくる。

 例えば、趣味・交際費というざっくりとした計上の仕方が私には合っているのだけれど、しかしちゃんと家計を考えるなら、趣味にはいくら、交際にはいくらと決めたほうがいいのだと思う。

 私はノリでお金を使うところがあって、好きなものができるとバンバンそれにお金を使ってしまう。使える金額に限りがあるし、「借金をしてまで」とは思わないのでなんとか生活はやりくりできているけれど。

 それに私は使い切ってお金がなくなれば、限界まで生活費を切り詰められるので余計に危険である。

 

 放浪していたときは月4万で暮らしていた。住処がなかったので、漫画喫茶の平日ナイトパックで1000円が×22日。休日は高いので野宿か24時間営業の店にいく。あとは食費と漫画喫茶でシャワーが使えないときの銭湯代、洗濯代ぐらいしかかからないので、4万あれば余裕で生きていけた。漫画喫茶に泊らず、食事もカロリー重視で買えば、月2万あれば十分だろう。

 それは生きていくというより命をつなぐといった感じだけれど。それに社会保障が一切ないので、なにか大きなアクシデントがあったら死んでしまうだろう。

 

 あれば使う。なければ使わない。私は、そういう歪な消費欲求があるので使途を明確にして、まっとうな人間に見えるように矯正したほうがいいんじゃないかと思っている。

 例えば、服飾・美容費を確保するといったことだ。私はファッションへの欲求が低いので、削ろうと思えばいくらでも削れてしまう。しかし、きちんとファッションの分の資金を確保して、その分はちゃんとファッションにお金をかけるといったことをすれば、歪さが軽減される気がする。

 

 それに出せる金額を先に決めてしまえば、その範囲で最大限のオシャレをしようと考えるようになるので、相応のブランドやメーカーを使えるようになるだろう。安すぎるものや高すぎるものをノリで買ってあまり使わなくて後悔するといったこともなくなるだろう。

 

 何を抑えるか、よりも何に使うかを決めて、その範囲の限界まで使うというやりかたができるようになりたい。自分のなりたい姿に合わせて消費をするのだ。消費はそのまま命を成形するだろう。

 

 そのために銀行口座を分割して自動積立したいと思って、検索したのだけれど、そういうサービスはあるがATMが使えないので意味がなかった。キャッシュカード一枚で複数の口座が使えるようにしてほしい。技術的には余裕だと思うんだけどなんでしないんだろう。 

 お金にならないからかな。口座を分割してカードで使えるようにしたところで入金額が増えるわけじゃなくて、ただ預金者が便利になるだけだから銀行にはメリットがない。

 それよりも、チマチマ家計を考えなくて、どんぶり勘定で生活できちゃう収入の高い人のサービスを拡充したほうが、銀行としてはメリットがあるだろう。

 タンス貯金しかないかな。でも、あまりやりたくない。昭和っぽくて情緒的には好きなのだけれど、私の場合はしまった場所を忘れてしまうだろうから。

 

 お金をどうやって稼いでどうやって消費するかは、人の生命の形を表している。ただ、その生命は本能的ではなくて社会的だ。

 人間は社会性のある動物だから、社会的な生命力と本能的な生命力がある。

 それらは主観的には渾然一体として、互いを行き来することが出来るけれど、一定ライン以上は分かたれたものだ。

 どれだけ健康に投資をしても克服できない病があったり、健康で知能が高く身体能力があってもお金を稼げない人がいる。

 

 とはいっても、たいていの価値観は本能も社会もごっちゃごちゃに癒着している。とくに美醜は社会性と本能性が混ざり合って互いの訴求力を高めあっている関係でおもしろい。世の中では、美しいモノのところにはお金が集まるし、お金を持っている人は美しいモノを得ようとする。

 その点で、さっきも書いた通り、美容に一定の投資をすることはいいだろう。それは本能と社会の欲求を合わせて満たすことだし、同時に需要も満たすからだ。もちろん、投資したところで個体差の限界(骨格等々)があるので、あまり躍起になっても仕方がないのだけれど。

 

 私の美醜のわからなさは、本能的な美への欲求が強くて、それを社会的な価値観に軟着陸できないからだろう。どんな人にも本来持ってる生物的な美しさがあって、私はその魅力にすごく惹かれるのだけれど、そこから社会的なフィルターを噛ませて良し悪しを判断ができない。

 

 でも最近はちょっとずつ社会的な価値もわかるようになってきた。かつての私はお金を持っている人や稼いでる人をどうでもいいと思っていたし、相手によっては否定的な感情を持っていた。でも今は、お金を稼いでいる人の社会的な生命力の濃さに魅力を感じている。

 だから、徐々に社会的に価値のある美しさが、わかるようになってくるかもしれない。アイドルや風俗にお金を使う感覚もわかるかもしれない。わかるからといってそれに従う必要はないけれど、わからないままで生きるよりはちょっとは今の社会で生きやすくなるだろう。

 価値判断の変化の片鱗をしっかりつかんで、新しい海に漕ぎ出していきたい。

 

 この考えを10年前に持っていたら現状がだいぶ違っていたのだろう。けれど、私の精神はそのように発達しなかったので仕方ない。それに社会的生命力の精錬に尽力することも、それはそれで苦しいことがあるだろう。競争したり、嫉妬したり、たりたり。

 だから、そのレールに乗らなかったこれまでの人生が最悪ってわけでもない。どんな生き方をしたって人は苦しいし楽しいものだ。

 資金のパイは自分で分けられるけれど、感情のパイは自分では分けられない。

 例えば10年前から社会的価値に気づいて注意深く生きた結果、大きな社会的成功を収めてたとしても、それで悲しみのパイが消えるわけではない。逆も然りだ。

 

 私がどうにか出来るのは「納得感」だけだろう。収支のパイをどのように分けようと私が納得できればそれでいい。だから、そのために色々と考えている。

 また感情のパイも、「私にはこんなに悲しみのパイばかりくる」と考えるか、「ちょっぴりだけど楽しみのパイがあるからそれでいい」と考えるか、それだけのことだ。人間関係や趣味、仕事もそうだろう。

 自分で切り分けられる領域は納得できるまで切ってみる。自分で切れない領域は受け取り方を工夫して納得する。

 

 パイの多寡はあんまり関係なくて、手元にあるパイの大きさに「自分が納得できるか」が大事だろう。そのためには自分で切り方をコントロール出来るパイとそうでないパイを見極めることと、切ることが出来るパイにたいしては真摯に取り組む姿勢を、切り分けられないパイにたいしては泰然とできる姿勢を持つことだ。

 

 いつまでも誰かにパイを切ってもらって、隣の人の皿を見て「私のパイの方が小さい」と思い続けてはいけないけれど、だからといって切られたパイをただボーッと見つめて受け入れてもいけないのだろう。私は今まで与えられたパイをじっと見てきたけれど、そのせいで色々と欠落した人間になってしまった。

 

 徐々にわかってきた。

 

 人がどんなラインでパイを切っているのかをちゃんと知りつつ、その上で自分はどのようにパイを切ったら納得できるのかを自分で考える。

 それが社会性が高い状態なのだろう。

 

 そのためにはちゃんと他人のパイを見て、嫉妬したり欲しがったりする過程を踏んでから、そうではない自分だけのパイのカッティングにチャレンジしなければいけないのだ。

 

 もちろん、他人のパイを知らなくても素晴らしいカットの仕方をして、そこに需要が生まれることもある。そうしたら、たとえそのカットが歪でも他人がどうにかこうにか隙間を埋めてくれる。でも私にはそのようなカットの才能はないし、たぶんこのままいったら野垂れ死んでしまうだろう。

 

 それはそれでいいのだけれど、よくないとも思えるようにもなったので、今からでも頑張って他人の皿を覗いたり、自分のパイのカットについて考えたりしようと思う。

 

 そんで、疲れたらやめればいいよ。