ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

アニメーター見本市感想ーシーズン1−

 アニメーター見本市というドワンゴスタジオカラーが中心となった企画があります。毎回どこからか監督を見つけてきて、7分前後のショートアニメを作ってもらうという内容です。題字が宮崎駿です。実は1月31日まで無料公開中なので暇な人は見るといいと思うのですが、その際の羅針盤というか、ものによってはエロとかグロとかあるので、そういうのの回避も含めて書いておきます。ちなみに全ての声は山寺宏一林原めぐみです。声優って凄いなと思わされます。

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1.龍の歯医者

 壮大な設定がありそうなのに、画面を見てすんなりと世界観が入ってきます。なんか説得力のある意匠ですね。綺麗にまとまっているし、ぱっと見のビジュアルがキャッチーで、また癖もないので最初に見るにはちょうどいい作品です。なんとなく続きを見たくなる感じ。直接的ではないが、暴力シーンがあります。

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 2.HILL CLIMB GIRL

 高校生が、ただ自転車を漕ぐだけのアニメ。アンダルシアの夏を思い出したけど、あれよりも、さっぱりと軽くてポップな印象です。よく動くCGが好きならおすすめ。

 

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 3.ME!ME!ME!

 海外でかなり人気の作品です。yotubeに各国語で歌ったり、踊ってたりしている動画がたくさんあります。それもそのはずで、海外のセクシーなPV+VJみたいな作りに萌えデザインを乗っけた作品なので、海外文化と日本文化が好きな層にはドンピシャなのでしょう。FPSシーンが出てきたり、エヴァのキャラ出てきたりとサービス精神旺盛です。個人的にすごく好きで一時期はループしまくっていました。teddyroidとdaokoの曲がいいです。エロ・暴力シーンあり。

 

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 4.Carnage

 復習とウェスタン。鉄板の設定をレトロ映画風に描いた作品。雰囲気はとても好きだけどショートアニメじゃなくてシリーズで観たいですね。後半で絵柄が変わったのが気になった。暴力・残虐シーンあり。

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5.安彦良和板野一郎原撮集

 今は見れないので省略。

 

 

6.西荻窪駅徒歩20分2LDK敷礼2ヶ月ペット不可

 息を飲む5分間です。見始めて気付いたら終わってて「あー、面白かった」となる作品。とにかく動きが素晴らしくて、いやむしろ特筆すべきは動きしかないんですけど、だからこそ「アニメ見た」って気分になります。かなりオススメです。

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7.until You come to me.

 エヴァのキャラクターがちょろちょろ出てきつつ、淡々と音楽が流れます。美しい背景を見る作品ですね。

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 8.そこからの明日。

  ガーリーでポップです。明るくて癖がないので落ち着いて観れます。見終わった後にちょっとほっこりしますね。カラオケのPVっぽいです。

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9.電光超人グリッドマン

 特撮系一発目です。これからちょこちょこと特撮ネタが出てきます。スタジオカラーだから仕方ないですね。特撮をあまり知らない私は「またかよ」って気分で見てました。

 特撮が好きな人には面白いでしょう。内容は今までの特撮作品をツギハギしたような、どっかで見たシーンが満載の作品です。一応、原作がある作品で、その後の話をアニメ化したみたいです。とにかく、勢いが凄い。一応暴力シーンはありますが、朝の特撮番組ぐらいです。

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10.ヤマデロイド

  山ちゃんが歌います。山ちゃん似のキャラが出てきて、歌ったり踊ったり旅したり恋したり戦ったりサイボーグになったります。ようするに悪ノリ作品です。ひたすらバカっぽいです。笑いたい人と山ちゃんファンは必見。私は面白くて何週もしました。

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11.POWER PLANT No.33

 レトロ日本風スチームパンクの世界で、巨大ロボと巨大生物が戦います。窓に移る巨大生物など特撮オマージュがちらほら。巨大ロボと巨大生物の戦いも迫力があって面白いですが、それに翻弄されて逃げ惑う人々の動きが細々とよく描かれています。

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12.evangelion:Another Impact

 エヴァアナザーワールドという設定で作られた作品。といってもストーリー性はほぼなくて、ただCGで作られたかっこいいエヴァが、かっこよく飛んだり跳ねたりビルを壊したりします。かっこいいです。

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というわけで、シーズン1の作品紹介してみました。

おすすめは「3.ME!ME!ME!」「6.西荻窪駅徒歩20分2LDK敷礼2ヶ月ペット不可」「10.ヤマデロイド」です。

 

 とりわけ「6.西荻窪駅徒歩20分2LDK敷礼2ヶ月ペット不可」は必見です。

 

 次はシーズン2の感想を書けたら書きます。公開は1月31日までなので、閲覧はお早めに。

 

アイドルがよくわからない

 美醜がよくわからないという記事を前に書いたのですが、それと繋がっている話です。 

 私はアイドルがよくわからないまま、今まで過ごしてきました。私が名前を言えるアイドルはツジノゾミとカゴアイです。漢字が分からないのでカタカナで書きました。

 あとその当時のモー娘。メンバーなら何人か言えるかもしれません。でも別にファンだったわけではなくて、まわりがモー娘。の話題をひたすらにするので、話を合わせるために覚えただけです。SMAPや嵐のような男性アイドルもそうですね。なんか、アイドルをはじめとするJPOPを聞いているのが、大人に見える時期ってありますよね。

 

 小学校高学年ぐらいですか。そのぐらいの思春期に飛び立とうとする直前の時期って、とりあえずJ-POPが頂点におしゃれなんですよね。それまではアニソンとかゲームソングばっかりだったのが、感度の高い女子あたりがうたばんとかMステとかを見だしてクラスに流行させるんですよ。

 思春期は大人社会に参画できる社会性を獲得する前段階なので、大きなメディアで流行っているモノがいいモノだと思えてくるのでしょう。

 私はクラスの状況やパワーバランスがよくわかっていませんでしたが、プライドだけは高かったので「お前知らないのかよ」と言われるのが嫌で覚えました。

 

 それで中学、高校と進級していくわけですが、そこでメインストリームに乗れ続けた人は、そのままJPOPが好きなままでいられます。スクールカーストから弾かれたりすると、アイデンティティを求めて彷徨って「周りの人が聞かない音楽」に辿り着きます。

 大抵は日本人アーティストでちょっとメインストリームじゃない人たちを知ってハマって、それから好きなアーティストたちのルーツを探っていくうちに、第一人者のような人にたどり着きます。だいたいが洋楽なので、しばらくは洋楽を好きになったりします。

 それで邦楽やアイドルソングを微妙に見下すのです。だいたい高校生ぐらいまではこんな感じだと思います。知り合いに音楽感度の高い人がいれば、またちょっと違うのでしょうが。

 

 それ以上の年齢になると資金と時間に自由がきくようになるので、そこで音楽が好きな人はジャンル専門のレコード屋に行くようになったり、ライブやイベントに積極的に参加するようになります。

 そうなると距離感の近い日本人アーティストにハマり直したり、好きなジャンルが固定されてきたりします。あるいは逆に、好きなジャンルを掘り過ぎて、オルタナディブ系に辿り着いて、例えばロック→ポストロック→エレクトロニカ→生音系エレクトロニカ→現代音楽みたいにジャンルをまたぎ出したりします。

 

 はい、私のことです。エレクトロニカを好きになった理由は、ちょっと違いますが。

 

 脱線しました。私はあまりアーティストの名前とかアルバム名とか覚えられないし、覚える気もないので、ずっと音楽が好きではないと思っていたのですが、人から言わせればけっこう音楽が好きらしいです。それと知識量の多さと好きの強さは無関係であるっていうのもここ数年で分かったので、今はたぶん「音楽好き」でいいのかもしれません。

 

 それで音楽が好きなので当然アイドルソングも聞くのですが、やっぱりアイドルがわからないのです。

 アイドルソングのクオリティが低いとか歌とダンスが下手とかそういうことじゃないんです。アイドルソングは一流のアーティストが作っているのでクオリティは高いですし、歌もダンスもすべて含めて「そういったデザイン」なのですから、コンセプトに合致していればいいのです。

 また音楽自体にビジュアルはいりませんが、エンターテイメント性を追求するならやはりビジュアルも大切です。ただ、客観的な美醜は関係なくて、たとえば素顔を見せないSiaのようなやり方でもよくて、観客の心を掴めばなんでもいいのです。

 

 その点で顔を前面に出して売り出せるアイドルのエンターテイメント性は高いといえますし、そのエンターテイメント性の高さは音楽の良さを否定しません。

 

 だからアイドルの音楽的な位置づけは別に否定してなくて、ただ私がよくわからないのはアイドルの好きになりかたです。

 

 うまく言えないのですが、「アイドル的に好きになる」ということがわからないのです。例えば、アイドルは恋愛がマイナス評価になります。

 ようするに恋愛感情を用いてアイドルの価値が保たれているということですが、その恋愛感情でアーティストを好きになるという感覚がまったく分からないのです。

 

 これは別にアイドルに限らず、福山雅治でも堀北真希でもいいのですが、いわゆるエンタメ的な活躍をしている人に人間的な感情を向ける感覚が全くないのです。

 

 ある好きなアーティストが結婚を報告したときに「ファンをやめる」という発言をする人がいて、そのアーティストはアイドル路線ではなかったのですが容姿が優れていたので、発言したファンはきっと恋愛感情を持っていたのでしょう。だからアイドルに限った事ではないのだと思います。ただアイドルは意図的に恋愛感情を利用しているので、わかりやすくアイドル的という言葉をつかいました。

 

 私にとって恋愛のような人間的感情と音楽やエンターテイメントは結びついてなくて、私の好きなアーティストが結婚しようと、罪を犯そうと、思想が合わなかろうと、どうでもいいのです。

 「坂本龍一反原発だから幻滅した」というコメントなんかは全く理解できないし、逆に「原発賛成だから坂本龍一が好きになった」というのもわからないのです。

 

 私の人生とアーティストの人生は全く交差しないだろうから、アーティストが何をしようとどうでもいいじゃないですか。死んだら新曲が聞けないので困りますが。

 

 しかしアイドル的にアーティストを好きになる人は、例えばその人に恋愛感情を持つし、趣味や誕生日や私生活を調べたりします。私も音楽的ルーツを知りたくて経歴を調べたりはしますが、私生活までは興味が持てません。

 

 美しいものにお金を払うのはわかります。ただ人間的な感情まで払えるのは、なぜなのでしょうか。

 

 でも世の中では、それが商売としてきっちり成り立っているのだから、私の頭がおかしいのでしょう。

 

 共感能力や投影能力が低いのかもしれません。

 

 眼差していて、眼差されている。

 

 こういう感覚を大事にできる人は共感能力や投影力があって、社会性もあるのでしょう。

 

 私はあまり「誰かに見られていたい」という感覚がないし、「見ていたい」という感覚がないです。

 いや、ないわけではないのでしょう。きっと、隠してしまったのか殺してしまったのか。自覚が出来ません。だからきっと、無意識に歪んだ形で表に出ているのでしょう。

 

 私はアイドルを好きになりたいし、タレントが結婚したら悲しんだりしたいです。

 

 欲求をより社会に合わせた形に矯正したいです。ようするに普通な感じになりたい。

 

 最近、こんなことばかり書いてるな。

 

穴だらけのコーヒーフィルター

 最近、SMAPが謝罪したという話題がタイムラインに流れてて、普段はあまりツイッターを見ないし、トレンドもニューヨークにしてる私でも、さすがに情報が入ってきました。トレンドをニューヨークにすると楽しいですよ。だいたい、NBANFLかテレビ番組の話しかしてません。日本のトレンドみたいにツイッターだけの文化のようなのは、あまりないですね。ツイッターの浸透してる層が日本とは違うのだろうか。

 

 それで多くの人に共有されるネタに対する言及って、ネタの仔細や正しい輪郭はどうでもよくて、ただ発言者が普段から思ってることに着地させるためだけの道具みたいになっていると思いました。例えばスマップの話だと、人によってはパワハラだというし、人によってはテレビの腐敗だというし、人によってはジャニーズの横暴が……とか言っています。

 

 みんながネタにできて抽象化しやすい問題というのは、自然とその人が普段から思っていることが滲み出てくるようで面白いです。たとえばパワハラを問題視していたり、実際にパワハラにあっている人などは、そこに注目して言及するのでしょう。

 自分から話題をチョイスして自由に発言を構築していけるなら、自分の言いたいことをある程度は自覚しながらできますが、時事ネタや門外漢のネタに無理やり食いつこうとすると、いくら気をつけても自分が知っていて普段から考えている方向に引っ張っていってしまうのでしょう。そういうときこそが発言者の本心や素の考えが見えます。

 

 普段は鋭いコメントをする人がただの感情論レベルのことを言ったり、いい本を書いている人がツイッターで軽率な発言をして炎上する、なんてのもそこに理由があるのだと思います。

 

 ツイッターでもブログでもなんでもいいですが、言葉を使う表現方法を選ぶ人は、発言することで社会に自分の価値を問います。とうぜん、私もそうです。なので、自分の社会的価値を高めたいと思う人ほど、発言するチャンスがあれば積極的に関わろうとします。

 

 影響力のある人が下手に発言するとマイナスになるので、それを避けたいという打算を持てばチャンスがあっても発言を控えますが、打算はあくまで打算なので「いける」と思っても失敗することや、そもそも影響力などないと考えている人は容易く時事ネタに飛びついて自分の考えを表明します。

 

 私はそういった風潮はいいと思っていて、影響力のある人が練度の低い発言をすることで、本心を世の中にぶち撒けやすくなっていれば、社会はそれを監視するだけである程度デトックスができるでしょう。政治家みんながツイッターの発言に関してリテラシーマネージャーのような人をつけてしまって、品行方正な発言しかしないようになったら、水面下で偏った思想の実現を狙っているときに面倒なので、どんどん失言してもらって失脚してもらったほうが社会的にはよいです。

 そして影響力のない市井の人の発言でも「他者はこう考えているのか」というサンプルケースになって、私がそれを多方から集めることで自分の考えの練度を上げることができるのでありがたいです。

 

 あまり考えを深めずに飛びついた発言というのは、いわば「穴の空いたコーヒーフィルター」です。止めているところは止めていますが、ある部分は自分の都合のいいようにドロドロと垂れ流れています。

 私はその穴の空いた部分を補うような意見を探してフィルターの上に重ねます。たくさんの人の意見を重ねることで穴のない綺麗なフィルターができてきます。私はなるべく穴のないフィルターが好きです。

 

 もちろん、穴のないフィルターが出来上がるまで発言するな、というわけではありません。そもそも穴のないフィルターなんて幻想で、どこかには穴があります。ただ比較的穴が少ないとか、ある人にとっては穴がないように見えるとか、その程度の話です。

 だからそんなに穴がないことに拘る必要はなくて、もちろん穴があるまま発言するリスクはありますが、そのリスクを背負ったり、発生した問題を解決できる能力や権力があるなら大したことではないのです。

 

 じゃあなんで私が穴のないフィルターを求めるかというと、ただの趣味です。私はただ穴のない意見が欲しいだけです。

 だから、いろんな人の意見を取り入れてじっくり考えます。反面、とりあえず穴はあってもいいからバンバン発言しよう、という人もいます。その人は、そういう趣味なのです。そして他人の趣味を否定する必然性はありません。もちろん、発言の責任は常に問われるでしょう。でもそれは、どんな趣味だって同じです。どんな遊びにも仕事にも責任は常に付きまとうものです。

 

 また安易に穴あき発言する人がいないと、穴のないフィルターを作ることは出来ません。だから私は、穴のある発言で、それが例え立場や状況から鑑みてあまりに不適切であったとしても、「発言したこと自体」は賞賛したいのです。

 その上で、発言の是非を糾弾するのは、またそれが趣味の人に任せればいいですし、自分が糾弾すべきだと思ったらすればいいのです。

 

 ツイッターSNSがはやるようになって、どんな立場の人でも安易に発言を拡散できてしまうということの問題点が取り沙汰されますが、私は全く問題だとは思っていなくて、ただ私が触れられる情報の可能性が広がっただけなので、とても喜ばしいことだと思っています。

 

 ただ、これは私の考えなので他人がどう思うかは別です。

 

 たとえば私は私なりに問題を抱えていて、それについて安易な発言を見たりします。でも、それで不快になったり怒りが湧いたりはしないので、どんな意見がネット上に転がっていても平気です。むしろ事実とは異なる偏見に満ちた意見が表面化するので都合が良いとすら考えています。

 でもそうじゃない人が大半なので、やはりネットリテラシーを考えていく必要はあるのでしょう。

 

 「私が平気だからいいだろ」は暴力です。

 

 私と違う考えの人を尊重するためにも、ネットで安易に発言できてしまうことの是非は常に考えていくべきでしょう。安易な発言で人が傷ついたり不快になるなら、なんとかうまい落としドコロを見つける努力は必要だと思います。

 

 自分と他人は違います。当然、意見も違うし思い込んでる正しさも違います。その上で、自分の意見に不備がなく正しいと信じて発言するもよし、さらに反対意見を糾弾するもよし、発言力を増すために様々な戦略をとってもよければ、誰も見ないチラシの裏にかいてもいいです。そして、それらの行動のすべてを傍観してもいいし、あるいは冷笑するのもいいでしょう。私はそれらの言動をなるべく抵抗なくスポンジのように吸収して、その上で自分の中で「納得できる」考えを見つけたいと思います。

 

 人生は短いけれど、浪費しないと退屈な程度には長いです。だからあんまり焦って意見を出すこともないと私は考えています。

雪ゆきて、寒波

 今日は雪が降った。東京に雪が降ると、交通網がいとも簡単に麻痺してしまう。私は麻痺耐性が高いので運良く逃れたが、それでも到着が少し遅れた。会社に着くとフロアの5分の1程度しか埋まっていない。まるで遅くまで残業したような日の光景に思えて、時間の感覚が一瞬だけおかしくなった。

 

 東京の交通網は雪にとても弱い。人々を巨人の心臓のように力強く各所へ送り出しているけれど、この程度のちょっとした雪で簡単に動脈硬化を起こしてしまう。「この程度」というのは、私が雪のよく降る地域出身だからだろう。雪に対する常識が違うのだ。ようするに偏見である。

 たくさんの人が集まり、たいていのものは揃ってしまうような、一見完璧に見える状態の都市でも、やはり弱点はある。もちろん、雪でも止まらないような対策を施すことはできるだろう。でも年に一回あるかないかの事態に備えてコストを払うというのは合理的ではない。非合理なところにコストをかけるよりも、普段から使う部分にコストをかけたほうがトータルでの満足度はあがる。だから、あえて雪に弱いままなのだろう。でもこれが雪国の鉄道だったらそうはいかない。置かれた状況によってクリティカルな問題は変わる。つまり、どんなに欠けていないように見えても、それはたまたま欠けていない側面だけを見せられる、見ている状況であるというだけと言える。

 

 都内の電車は優秀だ。時間に遅れないし、本数も多く、また場所も網羅されている。けれど、四次元ポケットから出てくる「どこでもドア」のように「どこでも」「いつでも」使えるものではない。自宅の前には来てくれないし、深夜はやってないし、雪が降ったら止まってしまう。

 どこでもドアならそんなことはないけれど、でも映画のときは大抵壊れているから万全とはいいがたい。電車は雪に弱く、どこでもドアは映画に弱い。どんなに優れたものにも弱点はあるのだろう。

 いや、弱点ではないか。ただ使う側が弱点だと思っているだけで、電車もドアもただあるようにあって機能するように機能しているだけだ。運休や故障も含めて、ただの状態である。それを弱点だと判断するのは使用者の意識だ。

 

 弱さも強さも主観でしかない。競技の世界で限定的な強弱を決められる以外は、すべて主観的な強弱の判断だ。大多数の主観が集まって弱者や強者を決めるけれど、それはあくまで主観の集合でしかないから、その集団と仲良くしなければ強弱とは無関係でいられる。

 

 私は、弱者・強者の問題を「弱者だから」「強者だから」という意識で解決してはいけないと考えている。弱者であることを条件として支援するならば、問題の本質は解決しない。

 弱者だからではなくて「困っている」から助けなければいけない。そうしないと、弱者は他人から弱者に見えるような振る舞い続けないと支援を受けられないという構図が定着してしまうし、強者に見える弱者は支援されないことになってしまう。

 そもそも困っているならば強者であっても助けられるべきだ。なぜなら主観的には強く見えても、実際は雪が降っただけで停止してしまうような弱々しい部分を持っている可能性があるからだ。

 

 もちろん、私がそう考えているというだけのはなしで、世の中では「弱者アピール」をしたほうが支援を受けやすいことも事実だから、止むに止まれぬ事情があるならば「弱者を助けたい」という人々の心理を大いに利用したほうがよいだろう。私はその上で、弱者アピールが得意ではない人も支援されるようになれば理想的だし、もっといえば弱者と認定されても「困ってない」人が外からワーワー言われないようになると楽だなと思う。

 

 世の中で弱者やマイノリティと言われている人でも、困っている人と困っていない人がいる。それに困っていることも人それぞれだ。ある人にとっては「困ったこと」に映るものが、別の人にとっては「どうでもいいこと」だったり、むしろ「チャンス」だったりするので、一概に困りごとだと考えて価値観を押し付けてもいけない。

 

 他人からは困っていることは見えない。見えていると思えるのは、たまたま他の人と「困るポイント」が重なっているか、ただ「困ったこと」を押し付けているだけだ。

 

 人には出来ることと出来ないことがあるけれど、出来ないことと「困ること」は別だし、出来るからといって「困らない」わけでもない。出来なくても困らない人に、「それは困ったことだよ」と伝えたとしてもピンとこないだろう。ピンとこないならまだしも、言われたことによって「自分は困っているんだ」と思うようになってしまうかもしれない。それは世界に「困りごと」を一つ増やしたことになる。

 あるいは毎日テキパキと出来る人が実際のところは無理をしていて「困っている」かもしれない。バリバリ働けるから大丈夫だろうなんてことはない。優秀だと喧伝される日本の鉄道だって止まるときは止まるし、普段から優秀であるために払うコストは膨大だ。けれど、実際に止まると普段が優秀すぎるので反動で非難されてしまう。これを人間に置き換えたら、なかなか「困ったこと」じゃないだろうか。

 

 私はとくに「困ったこと」がない。他人からみたらあるのかもしれないが自覚がない。 

 そのせいか私は、他人が困っていることもあまりわからない。表面的に困っていることはわかるけれど、それは例えば、道に散らばってしまった書類を拾うのを手伝うとか、白杖を持っている人が戸惑ってたら助けるとか、電車で席を譲るとかそういうことでしかない。誰にでも平等に起こりうる「困ったこと」なので、自分に余裕があるときは助けるが、それは助けるなんて大仰なことじゃなくて、ただお互い様に行う挨拶のようなものだ。

 

 けれど、挨拶程度の手助けより先に踏み入って「この人はこういう部分で困っているだろう」という推察をして行動することが私には出来ない。たとえば発達障害者は対人スキルが低くて、日常生活や社会参画に困っているだろうから、気を使おうといった発想がない。対人スキルが低くなくて社会にうまく参画出来てる発達障害者もいっぱいいるだろうし、たとえそうでなくても本人が困っているかどうかはわからない。

 

 世の中には障害者以外にも「困っているだろう」とレッテルを貼られた人がたくさんいるけれど、その人たちが本当に困っているかはやっぱり本人に聞いてみないとわからないんじゃないかと思ってる。どうように「困ってない」とレッテルを貼られている人だって、話してみたらボロボロと困ったことが出てくるかもしれない。

 

 一人一人とじっくり話し合ってみないと、困っているかどうかがわからない。その上、対話をしても理解できない「困りごと」もある。もちろん、理解する必要はなくて、ただ「困っている」という相手の意見を認めればいいだけなのだけれど。

 認めるだけじゃなくて、実際に「助ける」なら理解は必要だが、そうでないなら認めるだけでいい。

 そうすれば何も聞かないで判断するよりは、ずっとしっかり考えることができる。

 

 けれど、対話が出来ない人もいるし、対話をしても偽装している可能性があるから対話だけしていればいいわけでもなくて難しい。それは自分自身との対話も含めて、そうだ。

 

 私はワタシとよく話すが、私と話すワタシは飄々として「特に困ったことはないよ」と言っている。でもそのワタシの背中には「困っている私」が隠されているのかもしれない。いないのかもしれない。どっちでもいいのだけれど、ワタシが嘘をついているのならば、正直に話してくれるまで気長に待とうと思う。それから解決しようとしたって遅くないだろうし、もう手遅れになっていたなら、それはそれで諦めがつく。どっちだっていい。

 ただ、困りごとを積極的に解決しても、また新しい困りごとが降ってくるだけなので、困りごとがないと私に思わせてくれるワタシをまだしばらく信じていようと思います。むかしは信じてなくて、ことあるごとに疑っていたけれど、けっこう疲れるので、今はたまにしか疑わないことにしています。

 たまに疑うのはいいです。ワタシの主張の強度や不備が補われるので。友達作りたいってのも、それが理由です。「孤独でも困らないじゃーん」っていうワタシにちょっと揺さぶりをかけたい。でも根っこではワタシを信じているので、孤独でも困らないと思っている。

 

 ただ私は、私の困っていることを深く知りたいし、深く知って自分の困っていることを解決出来たら、私が仲良くしたい人の困ったことも解決出来たらいいなと思っている。そこまで行けたら、とても素敵だ。

 

 寒い日が続いている。喉がイガイガして咳が出るので、炭水化物を解禁した。風邪をひいたら困るのでエネルギー効率のいいものもをなるべく取っておきたい。多少は太るだろうが風邪を引くよりはマシだ。精神の困ったことはわからないけれど、体の困ったことはけっこうわかるようになってきたので、ちゃんと困らないように対策をする。体とはちょっとずつ対話できるようになったのでよかったと思う。

 今日は雪が降った。東京に雪が降ると、交通網がいとも簡単に麻痺してしまう。私は麻痺耐性が高いので運良く逃れたが、それでも到着が少し遅れた。会社に着くとフロアの5分の1程度しか埋まっていない。まるで遅くまで残業したような日の光景に思えて、時間の感覚が一瞬だけおかしくなった。

 

 東京の交通網は雪にとても弱い。人々を巨人の心臓のように力強く各所へ送り出しているけれど、この程度のちょっとした雪で簡単に動脈硬化を起こしてしまう。「この程度」というのは、私が雪のよく降る地域出身だからだろう。雪に対する常識が違うのだ。ようするに偏見である。

 たくさんの人が集まり、たいていのものは揃ってしまうような、一見完璧に見える状態の都市でも、やはり弱点はある。もちろん、雪でも止まらないような対策を施すことはできるだろう。でも年に一回あるかないかの事態に備えてコストを払うというのは合理的ではない。非合理なところにコストをかけるよりも、普段から使う部分にコストをかけたほうがトータルでの満足度はあがる。だから、あえて雪に弱いままなのだろう。でもこれが雪国の鉄道だったらそうはいかない。置かれた状況によってクリティカルな問題は変わる。つまり、どんなに欠けていないように見えても、それはたまたま欠けていない側面だけを見せられる、見ている状況であるというだけと言える。

 

 都内の電車は優秀だ。時間に遅れないし、本数も多く、また場所も網羅されている。けれど、四次元ポケットから出てくる「どこでもドア」のように「どこでも」「いつでも」使えるものではない。自宅の前には来てくれないし、深夜はやってないし、雪が降ったら止まってしまう。

 どこでもドアならそんなことはないけれど、でも映画のときは大抵壊れているから万全とはいいがたい。電車は雪に弱く、どこでもドアは映画に弱い。どんなに優れたものにも弱点はあるのだろう。

 いや、弱点ではないか。ただ使う側が弱点だと思っているだけで、電車もドアもただあるようにあって機能するように機能しているだけだ。運休や故障も含めて、ただの状態である。それを弱点だと判断するのは使用者の意識だ。

 

 弱さも強さも主観でしかない。競技の世界で限定的な強弱を決められる以外は、すべて主観的な強弱の判断だ。大多数の主観が集まって弱者や強者を決めるけれど、それはあくまで主観の集合でしかないから、その集団と仲良くしなければ強弱とは無関係でいられる。

 

 私は、弱者・強者の問題を「弱者だから」「強者だから」という意識で解決してはいけないと考えている。弱者であることを条件として支援するならば、問題の本質は解決しない。

 弱者だからではなくて「困っている」から助けなければいけない。そうしないと、弱者は他人から弱者に見えるような振る舞い続けないと支援を受けられないという構図が定着してしまうし、強者に見える弱者は支援されないことになってしまう。

 そもそも困っているならば強者であっても助けられるべきだ。なぜなら主観的には強く見えても、実際は雪が降っただけで停止してしまうような弱々しい部分を持っている可能性があるからだ。

 

 もちろん、私がそう考えているというだけのはなしで、世の中では「弱者アピール」をしたほうが支援を受けやすいことも事実だから、止むに止まれぬ事情があるならば「弱者を助けたい」という人々の心理を大いに利用したほうがよいだろう。私はその上で、弱者アピールが得意ではない人も支援されるようになれば理想的だし、もっといえば弱者と認定されても「困ってない」人が外からワーワー言われないようになると楽だなと思う。

 

 世の中で弱者やマイノリティと言われている人でも、困っている人と困っていない人がいる。それに困っていることも人それぞれだ。ある人にとっては「困ったこと」に映るものが、別の人にとっては「どうでもいいこと」だったり、むしろ「チャンス」だったりするので、一概に困りごとだと考えて価値観を押し付けてもいけない。

 

 他人からは困っていることは見えない。見えていると思えるのは、たまたま他の人と「困るポイント」が重なっているか、ただ「困ったこと」を押し付けているだけだ。

 

 人には出来ることと出来ないことがあるけれど、出来ないことと「困ること」は別だし、出来るからといって「困らない」わけでもない。出来なくても困らない人に、「それは困ったことだよ」と伝えたとしてもピンとこないだろう。ピンとこないならまだしも、言われたことによって「自分は困っているんだ」と思うようになってしまうかもしれない。それは世界に「困りごと」を一つ増やしたことになる。

 あるいは毎日テキパキと出来る人が実際のところは無理をしていて「困っている」かもしれない。バリバリ働けるから大丈夫だろうなんてことはない。優秀だと喧伝される日本の鉄道だって止まるときは止まるし、普段から優秀であるために払うコストは膨大だ。けれど、実際に止まると普段が優秀すぎるので反動で非難されてしまう。これを人間に置き換えたら、なかなか「困ったこと」じゃないだろうか。

 

 私はとくに「困ったこと」がない。他人からみたらあるのかもしれないが自覚がない。 

 そのせいか私は、他人が困っていることもあまりわからない。表面的に困っていることはわかるけれど、それは例えば、道に散らばってしまった書類を拾うのを手伝うとか、白杖を持っている人が戸惑ってたら助けるとか、電車で席を譲るとかそういうことでしかない。誰にでも平等に起こりうる「困ったこと」なので、自分に余裕があるときは助けるが、それは助けるなんて大仰なことじゃなくて、ただお互い様に行う挨拶のようなものだ。

 

 けれど、挨拶程度の手助けより先に踏み入って「この人はこういう部分で困っているだろう」という推察をして行動することが私には出来ない。たとえば発達障害者は対人スキルが低くて、日常生活や社会参画に困っているだろうから、気を使おうといった発想がない。対人スキルが低くなくて社会にうまく参画出来てる発達障害者もいっぱいいるだろうし、たとえそうでなくても本人が困っているかどうかはわからない。

 

 世の中には障害者以外にも「困っているだろう」とレッテルを貼られた人がたくさんいるけれど、その人たちが本当に困っているかはやっぱり本人に聞いてみないとわからないんじゃないかと思ってる。どうように「困ってない」とレッテルを貼られている人だって、話してみたらボロボロと困ったことが出てくるかもしれない。

 

 一人一人とじっくり話し合ってみないと、困っているかどうかがわからない。その上、対話をしても理解できない「困りごと」もある。もちろん、理解する必要はなくて、ただ「困っている」という相手の意見を認めればいいだけなのだけれど。

 認めるだけじゃなくて、実際に「助ける」なら理解は必要だが、そうでないなら認めるだけでいい。

 そうすれば何も聞かないで判断するよりは、ずっとしっかり考えることができる。

 

 けれど、対話が出来ない人もいるし、対話をしても偽装している可能性があるから対話だけしていればいいわけでもなくて難しい。それは自分自身との対話も含めて、そうだ。

 

 私はワタシとよく話すが、私と話すワタシは飄々として「特に困ったことはないよ」と言っている。でもそのワタシの背中には「困っている私」が隠されているのかもしれない。いないのかもしれない。どっちでもいいのだけれど、ワタシが嘘をついているのならば、正直に話してくれるまで気長に待とうと思う。それから解決しようとしたって遅くないだろうし、もう手遅れになっていたなら、それはそれで諦めがつく。どっちだっていい。

 ただ、困りごとを積極的に解決しても、また新しい困りごとが降ってくるだけなので、困りごとがないと私に思わせてくれるワタシをまだしばらく信じていようと思います。むかしは信じてなくて、ことあるごとに疑っていたけれど、けっこう疲れるので、今はたまにしか疑わないことにしています。

 たまに疑うのはいいです。ワタシの主張の強度や不備が補われるので。友達作りたいってのも、それが理由です。「孤独でも困らないじゃーん」っていうワタシにちょっと揺さぶりをかけたい。でも根っこではワタシを信じているので、孤独でも困らないと思っている。

 

 ただ私は、私の困っていることを深く知りたいし、深く知って自分の困っていることを解決出来たら、私が仲良くしたい人の困ったことも解決出来たらいいなと思っている。そこまで行けたら、とても素敵だ。

 

 寒い日が続いている。喉がイガイガして咳が出るので、炭水化物を解禁した。風邪をひいたら困るのでエネルギー効率のいいものもをなるべく取っておきたい。多少は太るだろうが風邪を引くよりはマシだ。精神の困ったことはわからないけれど、体の困ったことはけっこうわかるようになってきたので、ちゃんと困らないように対策をする。体とはちょっとずつ対話できるようになったのでよかったと思う。

 

芸大美大の話

 タイムラインで「子供が芸大美大に行きたいと言ったら止めるべきじゃない」というのが流れてきたので思ったことを書きます。

 まず芸術や美術の価値とマネーは別で、本能に訴えかける需要でない限りはマネタイズが必要で、マネタイズの才能とアートの才能は別で、しかもそれはたぶんアートを真剣に学んでも得られないものだと思います。

 芸術で身を起こすのならば、アートの価値を高めるのではなく、マネタイズの上手い人を捕まえるか、マネタイズを学ぶのが良いと思います。

 たとえば、岡田斗司夫ガイナックスみたいな関係です。ガイナックスには恐るべき才能が集まりましたが、岡田斗司夫というマネタイズの天才がいなければ成立しなかったでしょう。

 その点でアート系の学校はマネタイズを教えないし、かといって本能に根差した「衣食住性」に訴えかけるような能力を培えるかどうかも分からないです。

 

 ただ本能的欲求と理性的欲求の合いの子のようなものを作りたいと思えるのならまだ事情は違います。

 たとえばパティシエ、建築、服飾、風俗といったアーティスティックでありながらも、本能に訴えかける要素を持つジャンルにランディングできるならば、それはマネタイズの道が開けます。

 だから、いい音作るアーティストもライブのときは化粧をしてファッションにこだわるし、即売会では綺麗な売り子をどっかから見つけてくるし、ショーではコンパニオンを呼ぶし、村上隆は射精するフィギュアを作ったのでしょう。

 

 でもそういった事情と、親が子を美大に行かせることは割と無関係です。

 

 私は子育ては趣味であり、また子供と親が自己肯定感を高める儀式だと思っています。

 

 だから、子供を美大に行かせることは実質的な投資やマネタイズとは別の次元で、採算度外視に子供の自己肯定感を満たすことであり、また親は子供の自己肯定感を満たせるという自己肯定感を満たす儀式なのです。

 

 私は今のところ、子供を作る予定はありませんが、もし子供を作ることになったら、まずは対等な関係で互いの肯定感を培える環境を作り、その上でマネタイズをどうしていくかを一緒に考えられる関係になりたいと思います。

 

生活のパイを分ける

 生活環境が変わるので、それについて考えている。

 仕事が忙しくてほとんど自分のことが出来ていないけれど、空き時間はたいていそのことについて考えている。

 支出が増えることになるので、いったん収支を見直したい。といっても収入は簡単には増やせないので、支出を見直すしかないだろう。

 

 収入を増やすことを考えてはいるが、あまり私には向いてないようで、思いつくのは数ヶ月プランで何かアプリを作って売るということぐらいだ。

 それも売れるかどうか分からない。そもそも数ヶ月で作れるかも分からない。個人の時間があまりないので、趣味や交際の時間を制作に当てるしかない。ただ、ものを作るのが趣味なので、制作をしながらストレス発散ということは出来るだろう。あとは売れるかどうかだ。

 

 私は自分で作ったものを売った経験がないので、今年はそれにチャレンジしようと思う。チャレンジといってもApp Storeあたりで開発者登録をして、アプリをアップロードして、あとは審査通るのを待つだけなんだけだから大したチャレンジでもない。

 

 別で即売会もやってみたいけれど、1日拘束されるのはなかなかしんどそうだから、二の足を踏んでいる。いやまだ売るもの作ってないから一の足も踏んでないけど。

 私は交流をあまり好まないので、即売会のそういった側面にあまり魅力を感じない。だから即売会は当分しないだろう。

 

 あと私は物理媒体よりも電子媒体が好きというのもある。

 ディスクの片隅にひっそりといて、ランダム再生やファイル整理などでふっと「昔コレにはまってたなぁ」と思い出すのが好きだ。物理媒体でもできるけれど、それをするためにデッドスペースを作らなきゃいけないから、あまり好きではない。

 

 大量の情報の海を泳いで、ときおりイルカに遭遇するような、そんな楽しみ方をできるのは電子媒体だけだ。

 

 話が脱線した。支出について考えていると、支出をどう抑えるかではなくて、何に使うかを具体的に考えるほうが大事だというのがわかってくる。

 例えば、趣味・交際費というざっくりとした計上の仕方が私には合っているのだけれど、しかしちゃんと家計を考えるなら、趣味にはいくら、交際にはいくらと決めたほうがいいのだと思う。

 私はノリでお金を使うところがあって、好きなものができるとバンバンそれにお金を使ってしまう。使える金額に限りがあるし、「借金をしてまで」とは思わないのでなんとか生活はやりくりできているけれど。

 それに私は使い切ってお金がなくなれば、限界まで生活費を切り詰められるので余計に危険である。

 

 放浪していたときは月4万で暮らしていた。住処がなかったので、漫画喫茶の平日ナイトパックで1000円が×22日。休日は高いので野宿か24時間営業の店にいく。あとは食費と漫画喫茶でシャワーが使えないときの銭湯代、洗濯代ぐらいしかかからないので、4万あれば余裕で生きていけた。漫画喫茶に泊らず、食事もカロリー重視で買えば、月2万あれば十分だろう。

 それは生きていくというより命をつなぐといった感じだけれど。それに社会保障が一切ないので、なにか大きなアクシデントがあったら死んでしまうだろう。

 

 あれば使う。なければ使わない。私は、そういう歪な消費欲求があるので使途を明確にして、まっとうな人間に見えるように矯正したほうがいいんじゃないかと思っている。

 例えば、服飾・美容費を確保するといったことだ。私はファッションへの欲求が低いので、削ろうと思えばいくらでも削れてしまう。しかし、きちんとファッションの分の資金を確保して、その分はちゃんとファッションにお金をかけるといったことをすれば、歪さが軽減される気がする。

 

 それに出せる金額を先に決めてしまえば、その範囲で最大限のオシャレをしようと考えるようになるので、相応のブランドやメーカーを使えるようになるだろう。安すぎるものや高すぎるものをノリで買ってあまり使わなくて後悔するといったこともなくなるだろう。

 

 何を抑えるか、よりも何に使うかを決めて、その範囲の限界まで使うというやりかたができるようになりたい。自分のなりたい姿に合わせて消費をするのだ。消費はそのまま命を成形するだろう。

 

 そのために銀行口座を分割して自動積立したいと思って、検索したのだけれど、そういうサービスはあるがATMが使えないので意味がなかった。キャッシュカード一枚で複数の口座が使えるようにしてほしい。技術的には余裕だと思うんだけどなんでしないんだろう。 

 お金にならないからかな。口座を分割してカードで使えるようにしたところで入金額が増えるわけじゃなくて、ただ預金者が便利になるだけだから銀行にはメリットがない。

 それよりも、チマチマ家計を考えなくて、どんぶり勘定で生活できちゃう収入の高い人のサービスを拡充したほうが、銀行としてはメリットがあるだろう。

 タンス貯金しかないかな。でも、あまりやりたくない。昭和っぽくて情緒的には好きなのだけれど、私の場合はしまった場所を忘れてしまうだろうから。

 

 お金をどうやって稼いでどうやって消費するかは、人の生命の形を表している。ただ、その生命は本能的ではなくて社会的だ。

 人間は社会性のある動物だから、社会的な生命力と本能的な生命力がある。

 それらは主観的には渾然一体として、互いを行き来することが出来るけれど、一定ライン以上は分かたれたものだ。

 どれだけ健康に投資をしても克服できない病があったり、健康で知能が高く身体能力があってもお金を稼げない人がいる。

 

 とはいっても、たいていの価値観は本能も社会もごっちゃごちゃに癒着している。とくに美醜は社会性と本能性が混ざり合って互いの訴求力を高めあっている関係でおもしろい。世の中では、美しいモノのところにはお金が集まるし、お金を持っている人は美しいモノを得ようとする。

 その点で、さっきも書いた通り、美容に一定の投資をすることはいいだろう。それは本能と社会の欲求を合わせて満たすことだし、同時に需要も満たすからだ。もちろん、投資したところで個体差の限界(骨格等々)があるので、あまり躍起になっても仕方がないのだけれど。

 

 私の美醜のわからなさは、本能的な美への欲求が強くて、それを社会的な価値観に軟着陸できないからだろう。どんな人にも本来持ってる生物的な美しさがあって、私はその魅力にすごく惹かれるのだけれど、そこから社会的なフィルターを噛ませて良し悪しを判断ができない。

 

 でも最近はちょっとずつ社会的な価値もわかるようになってきた。かつての私はお金を持っている人や稼いでる人をどうでもいいと思っていたし、相手によっては否定的な感情を持っていた。でも今は、お金を稼いでいる人の社会的な生命力の濃さに魅力を感じている。

 だから、徐々に社会的に価値のある美しさが、わかるようになってくるかもしれない。アイドルや風俗にお金を使う感覚もわかるかもしれない。わかるからといってそれに従う必要はないけれど、わからないままで生きるよりはちょっとは今の社会で生きやすくなるだろう。

 価値判断の変化の片鱗をしっかりつかんで、新しい海に漕ぎ出していきたい。

 

 この考えを10年前に持っていたら現状がだいぶ違っていたのだろう。けれど、私の精神はそのように発達しなかったので仕方ない。それに社会的生命力の精錬に尽力することも、それはそれで苦しいことがあるだろう。競争したり、嫉妬したり、たりたり。

 だから、そのレールに乗らなかったこれまでの人生が最悪ってわけでもない。どんな生き方をしたって人は苦しいし楽しいものだ。

 資金のパイは自分で分けられるけれど、感情のパイは自分では分けられない。

 例えば10年前から社会的価値に気づいて注意深く生きた結果、大きな社会的成功を収めてたとしても、それで悲しみのパイが消えるわけではない。逆も然りだ。

 

 私がどうにか出来るのは「納得感」だけだろう。収支のパイをどのように分けようと私が納得できればそれでいい。だから、そのために色々と考えている。

 また感情のパイも、「私にはこんなに悲しみのパイばかりくる」と考えるか、「ちょっぴりだけど楽しみのパイがあるからそれでいい」と考えるか、それだけのことだ。人間関係や趣味、仕事もそうだろう。

 自分で切り分けられる領域は納得できるまで切ってみる。自分で切れない領域は受け取り方を工夫して納得する。

 

 パイの多寡はあんまり関係なくて、手元にあるパイの大きさに「自分が納得できるか」が大事だろう。そのためには自分で切り方をコントロール出来るパイとそうでないパイを見極めることと、切ることが出来るパイにたいしては真摯に取り組む姿勢を、切り分けられないパイにたいしては泰然とできる姿勢を持つことだ。

 

 いつまでも誰かにパイを切ってもらって、隣の人の皿を見て「私のパイの方が小さい」と思い続けてはいけないけれど、だからといって切られたパイをただボーッと見つめて受け入れてもいけないのだろう。私は今まで与えられたパイをじっと見てきたけれど、そのせいで色々と欠落した人間になってしまった。

 

 徐々にわかってきた。

 

 人がどんなラインでパイを切っているのかをちゃんと知りつつ、その上で自分はどのようにパイを切ったら納得できるのかを自分で考える。

 それが社会性が高い状態なのだろう。

 

 そのためにはちゃんと他人のパイを見て、嫉妬したり欲しがったりする過程を踏んでから、そうではない自分だけのパイのカッティングにチャレンジしなければいけないのだ。

 

 もちろん、他人のパイを知らなくても素晴らしいカットの仕方をして、そこに需要が生まれることもある。そうしたら、たとえそのカットが歪でも他人がどうにかこうにか隙間を埋めてくれる。でも私にはそのようなカットの才能はないし、たぶんこのままいったら野垂れ死んでしまうだろう。

 

 それはそれでいいのだけれど、よくないとも思えるようにもなったので、今からでも頑張って他人の皿を覗いたり、自分のパイのカットについて考えたりしようと思う。

 

 そんで、疲れたらやめればいいよ。

 

因果の穴を穿つ

 日頃の言動を鑑みるに、私は発達障害なのかもしれないけれど、いまのところは診断しようと思っていない。理由は胸の内に止めておきたいことなので、ここでは書かない。

 発達障害の診断名に限らず、世の中にはさまざまな状態があって、その状態を表す言葉がある。そして状態の発見と名付けは、私の小さな脳みそでは追いつけないほどの速度で増え続けている。

 しかも新しい状態を見つけてそれに名前をつけるだけでなく、かつては一緒くたにされていた名前を分割したり、同じ名称のものからちょっと違う状態のものを枝分けしたり、逆に今まで別々に扱っていたものを包括的な名称に変えたりもする。

 

 たとえば、かつての精神障害狐憑きやキチガイとまとめて扱われていたし、また今だと風俗嬢やAV女優にセックスワーカーという統合的な名称が生まれている。

 

 私はわざわざ言葉が増えていくことに疑問や抵抗を感じつつも、必要なことだとも思っている。

 言葉が増えるのは専門的に扱う場合のみでいいと考えていて、たとえばアスペルガーという専門用語が一般にも浸透したが、素人がよく学ばずに使ったせいで「アスペ」というたんなる侮蔑語になってしまった。だから、新しく言葉を増やすなら、その言葉と定義がほんとうに必要な専門性の高い人々の間のみでなされればいいと思っている。そういったいわゆるターム(専門用語)というものが、一般に広まると本来の意味が希釈されて、よりわかりやすく衆目を集める意味に変換されてしまうのでよくないだろう。

 

 そう考えると同時に、ある種の言葉は定義よりも強い「因果」をはらんでいるので、その因果を断ち切るために新しい言葉を作ることは意味があるとも考えている。

 

 たとえばセクシャルマイノリティは、さまざまな定義と名称を生み出して、それを自称することで社会から押し付けられた因果を逃れ、立場を変えようと試みる。また新しい言葉を使うだけでなくて、侮蔑されてきた言葉をあえて使うことで、マジョリティの意識を逆手に取るという戦略もある。これは差別語がその本来の定義や意味よりも、背景にある因果により重きをおくからだろう。

 

 私は言葉にはソリッドワードとリキッドワードがあると考えていて、ソリッドワードは意味と定義の固定が最重要とされるが、リキッドワードは文脈と背景が重要視される言葉であると定めている。

 

 ソリッドワードの代表格はタームで、それは厳密な定義と強固な意味性を持つ。タームを用いることで、専門者同士がいちいち細かい部分の説明をしなくても意思の疎通ができて時間の節約になるというメリットが生まれる。しかし、個々人で専門用語の定義が違うと、意思疎通によけいな齟齬が起こって、むしろ平易な言葉で遠回りに表現したときよりも時間を浪費してしまう。だからこそ、厳密な定義や意味の共有が重要だ。

 

 リキッドワードの代表格は「愛している」だ。愛しているの定義は曖昧で、意味の強度も脆弱だ。だから言葉自体よりも、その言葉を使うまでに積み重ねてきた背景が重要視される。背景や文脈がなければ、まったく価値を持たないのが「愛している」という言葉である。

 

 そして差別語はリキッドワードだ。だから、背景にある社会が勝手に押し付けたドロドロした因果の積み重ねを一掃するためにも、言葉ごと消し飛ばしてしまうのは一つの方法だろう。

 反面、リキッドワードであるからこそ、お互いにわかり合った背景があるならば、あえて使うことで親密さを醸すこともできる。例えばネグロイドの人々は互いに「ニガー」と呼び合って仲間意識を作る。

 

 言葉自体に功罪はない。ただ言葉にどんな因果を持たせるかが、言葉の功罪を決めるのだろう。

 

 たとえば「雨のような気持ち」という言葉を見たときに楽しい気分になるのか、悲しい気分になるのか、はたまたそれ以外の気分になるのかといったことだ。私にとって「雨のような気持ち」は、穏やかに盛り上がっていく気分だと捉える。私は小さい頃から雨の日がけっこう好きで、家のなかで雨粒が屋根を叩く音を聞きながら、窓から雨に煙った庭を見て、ちょっとワクワクしていた。これは私の因果だ。

 

 私は「幸せになる」の意味がよくわからないけれど、さまざまな言葉にたいして湧いてくる感情や思考に自分が勝手に与えてしまっている因果を、一つ一つ引っ張り出してきて、埃を払って点検し、必要があれば交換して、そういうことを繰り返すのが幸せにつながるのかな、とぼんやり思っている。そのためにはいろいろなことを見て聞いて知る必要がある。

 因果を更新し続けることが、なぜ幸福につながるのかというと、言葉は純粋に人間のためにあるもので、その人間は一つ二つの凝り固まった因果では解決できないほど多様からだ。

 言葉に含めた因果をバージョンアップしていけば、それは人間への理解をバージョンアップすることで、つまり自分自身への理解をバージョンアップすることになる。変化は必ずしも良いことではないけれど、なにか辛いと思うことがあるならば、それの根源を理解するためにも、とりあえず更新してみればいいじゃん、という短絡的な考えがある。これはたぶん、そんなに間違ってはいないんじゃないかな。

 それに人間に限らず、一つ二つの因果で単純に説明できるものは少ない。

 

 因果の説明は数学やゲームのように法則や領域を限定した場合にしかできないだろう。とはいっても数学も先に定理だけがあってその因果を説明しなければいけないこともあるし、またゲームも『ルールズ・オブ・プレイゲームデザインの基礎』で言及される妨害屋のような「勝つことを目的としないプレイヤー」などがいる限りは、完全に因果を説明することはできない。ゲーム理論はあくまで「すべてのプレイヤーが勝つことを前提に行動する」という仮定がないと成り立たない。

 

 そう考えるとこの世で因果を説明できる領域はほんとうに狭いと感じる。だからいっそのこと因果から解放されて生きていきたいと願うけれど、その望みは不可能であることも知っている。因果から距離を置くことはできるけれど、完全になくすことはできないし、出来るという幻想にすがって判断すれば、そのうちに大きな間違いをしてしまうだろう。

 加えて私は、因果を見出すことを楽しんでいる。私の気質は因果を求めるようにあって、だから因果を比較的に見出しやすいゲームに惹かれるのだろう。

 

 この気質は私だけの特殊なことではないと思う。ただ、すでに持っている因果を疑って更新し続けたいという意欲の有無の違いはあるけれど、因果を好む性質は多くの人が持っているだろう。

 なぜなら凶悪な少年犯罪が起こったら、まず「なぜ」というところから始まるからだ。あるいは女性が殺されたときに、その人が夜の店で働いていたりすると「痴情のもつれ」といった因果を期待するような報道がなされるか。報道は真実ではないけれど、大衆が求めるものを流すので、多くの人はそういった因果を求める傾向にあるのだろう。

 

 因果は魅力的だ。すべてのことに意味があり、背景があり、文脈があると考えることは心を強烈に湧き立たせる。それはきっと人間が安心して生きていくために手に入れた知恵なのだろう。人間は恐ろしい災害や凄惨な事件に巻き込まれながら生きてきた。そのうちで、それらに因果がある、と考えることで問題を対象化したのだと思う。

 HIV/エイズの知識が乏しかったころは、ゲイセックスが原因だと考えられた。それは全く誤った因果なのだけれど、多くの人はそれを信じた。信じないと怖かったからだ。ゲイとセックスしなければ安全と思いたかったからだ。

 

 でも、そんな単純な因果で説明できるほど病気も人間も底が浅いものではない。

 

 私はゲームプログラマーで、ゲームが好きだからこの仕事についたけれど、ゲーム業界には全くゲームをやらない人もいるし、オタクでない人もいる。けれど、多くの人がゲーム業界の人はゲームが好きだから、そこで働いているという因果を求める。それは統計的には正しいかもしれないけれど、疑いようがなく決めつけていいほど「完璧な因果」ではない。人々はそれぞれの因果をもって、それぞれに生きている。だから分かりやすい「安易な因果」が見えたとしても、簡単に他人に当てはめてはいけないだろう。

 

 「安易な因果」は心と頭を楽にする。相手に「安易な因果」を押し付けるとき、その背景には押し付けた本人の因果があって、それは数十年もかけて穿たれた穴だったり、強力な爆弾で吹き飛ばされた穴だったりする。そしてその穴を埋めようとして、誰かに因果を押し付ける。そうすることで穴が埋まった気になって楽になるのだ。

 

 私も含め「安易な因果」に飛びついてしまう人は、当人の罪というよりは、思わず飛びついてしまうほどに追い詰めてしまった環境のせいだと思う。だから私は「安易な因果」に飛びついて偏見を撒き散らす人も、できるだけ愛したいと思う。私自身も含めて。

 でも、それは偏見を肯定することではなくて、偏見をしている自分を肯定するということだ。(うまく言えない。だから「愛している」という多態性のある言葉を使った)

 

 この文脈でいう「愛する」は承認と掘り下げを表している。まず穴があることを認めて、その穴に降りていき、穴をさらに深く深く掘っていく。どこかに繋がるまで。

 

 穴の底は冷たくて暗いだろう。それに気持ちの悪い虫や恐ろしい獣がいるかもしれない。それでも私は穴を覗きたいし、できればより深く掘ってどこかにつなげたい。

 昔は穴を埋めたいと思っていたけれど、埋めることはできないとわかったので、埋めるのではなく、どこか開けた場所に出るまで熱心に掘るしかないのだろう。

 

 でも、穴の深さもそこにいる魔物の強さも人それぞれだから、誰もが安易にできることじゃないし、やらなくてもいいと思う。穴を覗いただけで死に落ちたくなるような、そんな恐ろしい穴ならば蓋をして生きていってもいい。生きていくことが大事だ。(そんな大事でもないけど)

 その反動で誰かに因果を押し付けてしまうことは悲しいことだけれど、私はそれを糾弾するだけの理由がまだ持てない。

 

 ただわかっているのは、私は穴を覗きたいし、掘ってみたいと思っているってことだ。私は我ながらちょっと傲慢かもしれないけれど「やれる」と思ってるし、なにより「やりたい」からやる。穴掘り、は私の趣味だ。掘って掘って、地球の、いや宇宙の裏側に出たいんだ。

 

 私は私の穴をいったん愛した上で、そこからどう掘っていくかを考えたい。

 

 それで穴掘りの途中でたまーに誰かの穴と横穴で繋がったり、無線機で「ハローハロー」とお話できたらいいと思う。