ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

私憤と公憤について

 私の怒りは身体的精神的な不調にもとづく、一時的なイライラぐらいしかない。普段の私は怒りの感情に無自覚だ。世の中には、怒りたいような悲痛な出来事があふれているのに、私はそれらにたいして、怒りよりも先に虚無感が来てしまう。

 

 そのような私が怒りについて書くのは少々浮足立っているのは自覚しているけれど、思いついたことを記しておきたい。

 

 怒りには二種類ある。私憤と公憤(義憤)である。私憤とは自分の不利益や損害にたいして、怒りを表すことだ。公憤は自分とは無関係のことにたいして、怒りを感じることである。

 

 たとえば、ある犯罪にあった人が犯人にたいして怒るのは私憤で、それを報道で見た人が怒るのは公憤である。

 

 自分の不利益に対して怒るのは分かりやすい。目の前に突き付けられたナイフについて考えることだからだ。しかし、自分とは無関係のことにたいしても怒るというのは難しい。それには、ある程度の人間的な知性が必要となる。この先に突き立てられるであろうナイフについて考えることだからだ。

 自分が直接かかわらない犯罪にたいして、怒りを感じるというのは、その犯罪の被害者に自分もなるかもしれないという恐怖を想像できるだけの知性があるからに他ならない。

 

 この知性が良くも悪くも、人間の命の有り様を複雑にしている。

 

 自分と関係のないことに怒るというのは本来、社会のためにある。自分が経験した辛さや苦しさを経験として、それと同じことが起きたり、起きようとしたときに怒りをもって対処する。それは二次、三次の悲劇を阻止するために必要な能力だ。

 

 しかし、それが暴走すると、自分のためにオオヤケを利用して、自分の怒りを解消するという方向に働く。

 

 それは事実を歪める。ごくごく私的な恐怖や怒りを解消する為に、他者の怒りを排除してしまう。

 

 怒りというの線引きだ。多くの人々が互いに我慢できる範囲を見つけるための儀式だ。これ以上怒ってはいけない。これ以下を我慢してはいけない。そういう約束のもとになされるものだ。

 

 しかしながら、怒りという感情のまばゆさは、そんなルールを軽やかに飛び越えてしまう。

 

 怒りの感情を突き詰めていくと、私憤を肯定するために社会的な力をつけて、他人の怒りを否定するというパワーゲームに陥っていく。

 

 パワーゲームに乗れた人は他者を蹂躙するし、乗れない人は憎悪を募らせていく。

 

 強すぎる快が他人を傷つけるように、強すぎる不快も他人を傷つける。

 

 私は、生きることが、己の快を獲得して、己の不快を否定することだというのは分かっているけれど、私の快や不快もそうであると認められないような、子供じみた幻想に囚われている。

 

 私は自分の快も不快も、他人の快も不快も無視を決め込みたいのだろう。

 

 そのような私が、社会で生きているということに甚だ疑問を感じるけれど、そのようなズレた人間が生きているというのもまた、人間の多様性の一部なのだと思ってぼんやりと生きていこうと思う。