ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

壁を作り、壊す

 新宿を歩いていると、なにかに切迫されるような感覚に陥る。

 西にはビジネス街や官庁施設があり、東は専門店やデパート、北側には歌舞伎町、南側もチグハグだけれど開発が進んでいる。

 東西南北にそれぞれの色と意味性が垣間見える。使い古した雑巾とアイロンのかかったハンカチが丁寧に陳列されているようだ。

 

 そんな新宿を歩いていると、ときおり上空に巨大なナイフがあって「働け!楽しめ!」の声とともに、突き立てられるような気持になる。新宿は目的のある街だ。欲望や意図や目的や、さまざまな指向性のある意識を持った人間が集まって、自分の命をどうにかこうにか、思うとおりにデザインしようとしている。

 新宿は、幸福や好楽、虚実のかけらが落ちていて、それをみんなで必死に集めるイベント会場なのかもしれない。

 なにかの目標を定め、そこに向かって自分のありようを操作しようと、デザインしようとする人々が持つ「熱気と臭い」は私にとって魅力的だ。

 けれど、心の底では「命に目的を与えること」にたいして強い怒りを感じている。そんな私にとって 新宿は、香りのついた油みたいなもので、そこで泳ぐのは楽しいのだけれど、いつかは油が全身に回って死んでしまうのではないか、というベトついた恐怖感がある。

 だから私は「ただ生まれ落ちて死ぬ」のを許さない新宿の空気が少し苦手だ。

 

 先日、新宿を散歩していた。ちょっと路地を入ってみると、意外なことに小学生の下校風景に出くわした。

 ふと周りを見渡してみると型の遅れたテレビを扱ってる地域密着型の電気屋があったり、くたびれた植物が無造作に置かれたスナックがあったりと、とうてい新宿とは思えない場所にいた。

 

 子供が、ランドセルじゃんけんをしている。ふざけ合って駆けだす子供たちを、交通誘導員がたしなめつつ横断させる。周りは殆ど住宅で、とても静かだ。ときおり、子供の声がその静寂を破った。

 

 どこか異世界に迷い込んでしまったかのような心もちだ。新宿にもGATEはあるのか。それとも、狐でもいるのか。そういえば、ついさっき稲荷様を見た気もするな。なんて考えながら、うろうろしているうちに、元の大通りに戻った。

 

 この体験は、もちろん魔術でもなんでもなくて、新宿にもそういう場所があって、ただ私が見落としただけ。それがたまたま見えるようになった。言い方を変えて、私の眼前にあった壁が取り払われたのだ。

 こういうことは多々ある。たとえば、普段は景観の一部になって、ぼんやりと眺めている高層マンションにも、住んでいる一人一人の生活があって、その人たちは楽しんだり苦しんだりしている。しかし、それを隠す壁があるから私は見ることが出来ない。見ることは出来ないが、存在はしている。

 

 壁はどんなところにもあって、自分で作ったり他人に作られたり、自分で壊したり他人に壊されたりしている。

 壁とは不思議なものだ。作りたくても作れないときもあれば、作りたいのに作れないときもある。作っていることに気付かなかったり、いつのまにか誰かに作られていることもある。

 そして、壁のもっとも難しいところは、それが景色になってしまうことだ。景色になってしまえば壁は壁として思われない。ただ当たり前のこととして目に映る。

 

 一般的に壁は作らないほうがいいというけれど、それは「社会的に不便な壁を作るな」という話であって、社会的に役に立つ壁は自然と作られるし奨励される。それらは壁という表現ではなくて、道徳や常識、「仕方のないこと」といった言葉に変えられている。しかし、根っこは同じものだ。  

 

 壁は、建てれば、そこから差し込む光や風をしのげる。「○○はよくない」「○○は不幸」という壁を作れば、その先については考えなくていい。壁の先を考えない。壁の先とは接触しない。これは限りある人間の命と知能を考えれば致し方ないことだろう。

 命に目的優位性を持たせ、それに沿うようにひたすら壁を作り、まっすぐ走り抜ける。それもまた一つの命の使い方だと思う。

 

 逆に壁を壊すことや作らないことにも価値がある。壁を作らないと、風通しと見通しが良くなる。壁を作っていたら見えなかった景色を、たどり着けない場所を知ることが出来る。そのかわり、世界がどんどん複雑になっていく。ある程度の壁を作り、不必要な視点や考えはカリングしないと、それらにさらされる人間はズタズタに引き裂かれてしまうだろう。複雑であることは、ときに人を殺す。

 

 壁を作りすぎれば、生きづらくなる。作らなすぎても、生きづらくなる。どちらにせよ、生きづらい。

 

 バランスを取ったとしても、バランスを取るということに囚われれば、やはりバランスを失う。目的を持つことは人を楽しめるが、反作用として人を苦しめもする。バランスを取ることもそうだが、幸福や善悪や虚実や、そういったことを求めるのは毒入りの甘露を味わうようなことだ。

 

 私はどうしたいだろう。もう少し壁を建てるのか、さらに壁を壊していくのか。

 

 ただ一つ、私はより自由に壁を作ったり、壊したりできるようになりたい。また誰かが壁を作ろうとしたり壊そうとしたときに、冷静に状況判断をし、是非を決めて行動できるようになりたい。

 

 そのためには、より体力を付けることだろう。壁を作るのにも壊すのにも体力が必要だ。ただ体の強さをいうわけではない。もちろん、体の強さも必要だが、精神の強さや社会性の強さも大事である。肉体的な体力、精神的な体力、社会的な体力。

 

 目下、私の課題はこれになるだろう。

 

 肉体的と精神の体力は、とりあえず問題がないと思う。私は私ひとりでいる限り、肉体的にも精神的にも非常に安定している。ただ、私は誰かと関わることによって不安定になりやすい。

 その未熟さを克服すれば、また新しく見えてくるものがあるのかもしれない。もちろん、同時進行で心身の体力も育てていきたい。