ヒューズ・高感。リレキ

ヒューズは適度に取り換えましょう。

婚姻と少子化と高齢化とそれとは全然別に大切なことの話

 20代と30代の結婚願望の違いと少子高齢化について、いろいろと書いている人がいたので読みました。

 

論旨

 1.20代の結婚願望が上がっている

 2.婚姻数が増えれば出生数が増える

 3.10年後ぐらいには少子化は改善しているだろう

 4.晩婚化は1975~85年生まれ特有の現象かもしれない。

 

 また、その十年を異常な時代だったと言及するブログもありました。

 

それで色々とモニョッたのでこれを書いています。まず「少子化を改善」っていうのが、ピンときません。

 

 少子化の問題点は人口減少によって国の生産性が落ちて経済が停滞することにありますが、じゃあ人口が増えれば自動的に生産力が増え、経済が好転するのかといえば、そんな単純なことではないでしょう。

 

 実際に人口をひたすらに増やした結果が日本の現状なのですから、何も考えずにもう一度に同じことをしようというのは、切り株のウサギを待つようなことではないでしょうか。

 

 昔は生んで育てただけで労働力になって利益を生みましたから、産めば何とかなったわけですが、現在は教育コストが膨大になっていて、かといって教育をおろそかにすると労働から弾かれやすくなっています。かつては教育機会に恵まれなかった人々にも労働する場所はありましたが、それらの労働はロボットや発展途上国の労働者に取って代わられてしまいました。

 

 だから、単純に子供が増えれば全部オッケーというわけでは当然なくて、生まれてくる子供たちに現状の世相にあった待遇を用意できるかということが肝要なのです。

 

 そういうのはもうみんな分かっていてるから、2の婚姻数が増えれば出生数が増えるということにはならないでしょう。

 

 少子化を改善するのは簡単で、フランスのようにn分n乗とPACSを導入し、子育て支援を拡充して、「子供を作る人・子供に関わる人・子供」の三者に好待遇と流動性を用意すればいいわけです。

 

 子供を気軽に預けられる環境を作り、シングルの親で経済的な余裕がなくても教育の機会が開かれれば、子供を作る不安のほとんどは解消されます。理想は孤児とそうでない子がほとんど違いなく育てられる社会です。親が子を育てるのではなく、国が子を育てる仕組みを作るわけです。気軽に子供を作ってもらって、子育てが上手くいかないならすぐに国が請け負うという形になれば、「少子化」だけは解決します。

 

 しかし、そこまでして子供を増やしたからといって、経済的に豊かになる保証は当然ありません。現に少子化対策にある程度は成功しているフランスも経済的に成功しているかというと、難しいのが現状です。

 

 それでもなお、少子化に歯止めをかけることが有効だとしても、少子化対策を実現するために超えるハードルはとても高いでしょう。第一に、財源がありません。ないってことはないのですが、作り出すにはどこかから持って来なきゃいけないわけで、増税するか、ほかの予算を削るかという話になります。すると問題がとたんに難しくなっていきます。

 その難しさの最も大きな因子は、しょうもないことですが感情論です。

 

 今まで子育てをしてきた人たちは、「自力で苦労して育て上げた」という自負があります。すると、下の世代が楽な育て方(実際そうであるかは別として)をしようとしたら納得がいかないでしょう。家庭をもち、四苦八苦して子供を育て上げるのがまっとうな大人という価値観に基づくならば、気軽にこどもを作ってあとは社会に任せますなんて考え方は受け入れがたいでしょう。

 ましてや金なんか払いたくないと思うのも致し方ありません。

 

 これと同じ感情論なのが、若者から見た高齢者問題です。若者たちの年金割合はとんでもないマイナスで、日本の富は高齢者に集中していて、さらに貧困で孤独な高齢者の介護や医療問題もあって、これらすべてが若者に降りかかってくるわけですから、気持ちとしては納得がいかないものです。今の日本の問題を作ったのは、現在の高齢者ですから、その帳尻を自分たちが合わせないきゃいけないのかと憤慨するのもわかります。

 

 経済だけを考えれば、子供に投資するのが最善手でしょう。命に投資するという言い方はあまり好きではないですが、シンプルに考えれば耐用年数のながい存在に投資するほうにメリットがあります。

 こういう考えを突き詰めてしまうと、姥捨て山という話になってきて、貧困層の高齢者には安楽死も検討すべきだって言いだす人が出てくるわけです

 

 私は、安楽死自体には賛成ですが「貧困だから安楽死をする」となると、生きたい人でも貧困なら死ぬべきだという風潮が形成されていって、それはもう尊厳による自己決定的な死ではなく、ただ社会による殺人になってしまいます。

 

 私は、懸命に走ってきた人には笑顔でゴールを迎えてもらいたいです。生産性がないからと見捨てられて、「自分の人生はなんだったのか」と虚無感と呪詛を抱えて死んでいく様を「自己責任」なんて言葉では解決したくないです。

 

 と同時に「結婚して子供を増やせ」と社会圧力だけを高められ、実際に結婚して子供をもうけたら「自己責任」とされ、20余年も補給なしで行軍させられるというのも、また納得がいきません。

 

 そのような言葉を容易く言えてしまうのは、自分の立場を合理的に証明すればすべてが事もなしと考える現状のせいです。

 

 自分と違う立場を想像するのは難しいことです。さらに情報化社会になって、数値ばかりが目に入ってくるようになったので、ついつい問題を簡略化して考えてしまいがちです。しかし、数値の先には息づく人々がいるのです。その事実はどんな合理的な理由づけがあったとしても無視してはいけないと思います。

 

 もちろん、この考えが絵に描いた餅なのは重々承知です。少子化対策で旧態然とした子育てのあり方を変えるにしても、あるいは高齢者の待遇を手厚くするにしても、誰かしらは割をくうわけで、誰しもが割を食う側にはなりたくないと思っているでしょう。

 培ってきた常識、与えられると信じてきた期待、行動の軸となっていた道徳などを、くるりと変えるのは容易ではありません。だれもが、そんなことをしたくないでしょう。

 

 だから、何かを変えるには誰かが「割を食う対象」を決断をして、舵を切る必要があります。でも、それは行政の仕事で一般市民が自分の感情を込めてまでやる必要はありません。

 行政が合理的ながらも人を切り捨ているような「かじ取り」をし、一般市民は非合理でも人に寄り添った考えをして行政を監視・批判するのが、バランスの取れたよい状況だと私は考えています。

 一般市民も行政とおなしように冷徹となって数値に従ってしまったら、では行政の仕事はなんなのか、そして行政を止めるのは誰なのかということになってしまいます。

 

 もちろん、議論することは大事です。

 

 しかしながら、貧困高齢者の安楽死を願ったり、晩婚化がすすんだ今の30代を異常な時代のせいだと主張することに、どれほどの意義があるのでしょうか。

 当事者を傷つけ、当事者を憎んでる人(自分自身も含めて)が溜飲を下げる。その様は、社会問題に言及してはいますが、ただのコンテンツに見えます。襟を正して原稿を読み上げますが、その内容はコメディなのです。

 モンティパイソンの「バカ歩き省」ならば笑って見ていられますが、フィクションでないように言及されたら見るものには逃げ道がありません。

 

 「今の30代の晩婚化は特殊な状況で、いずれ正常な状態に戻る」

 「貧困層の高齢者は安楽死が最善だ」

 

 そのセリフに該当する層の人々を足元からざっくりと刈り取るような言及が軽々しく飛び交っています。

 

 発言者は行政を担う人でなく、ましてや専門家でもありません。だから、そのような人々の発言を真に受けるなというのは勿論でしょう。しかしながら、言われる立場と状況によっては、分かってはいても苦しいものです。

 

 ならば毎日、「天気」と「食べたごはん」と「観葉植物の状態」だけをブログに書けばいいのか。もちろん、そうは思いません。ブログは自由ですから、自由に使ってよいです。お金を儲けてもいい。アジテートしてもいい。

 

 耳目を集めるには過激なことや断定的なことを書くのも戦略の一つです。しかし、その戦略のために誰かを傷つける可能性があるという自覚は常に必要だと思います。

 それを失ってしまうと、やがて特定集団のスピーカーになってしまいます。

 

 響く音の意味を省みなければ、発する側と聞く側が、お互いに相乗してスピーカーの音量はどんどん大きくなります。やがて、スピーカーから発せられる大音響は耳をつんざくばかりになり、そして小さな声をかき消します。

 

 それは、はたして「最善」なのでしょうか。






 そうそう書き忘れてました。

 

 20代の未婚率はたんに頭打ちになっただけだと思います。婚姻制度がこのままであれば、大きく反転はしないでしょう。結婚のデメリットがしっかり伝わって、それでも結婚を選ぶ人や、あるいは伝わらない状況にいる人がこれだけ残ったということです。

 

 2015年の国勢調査速報でも順調に世帯数の増加と世帯規模の減少が起こっているので、「おひとりさま」は確実に増えています。もちろん、死別や離婚による一人身が増えたということでもあるので、そのまま20代の未婚率と相関するわけではありませんが、これから出てくるであろう未婚率の統計とは無間系とは言えないし、おそらくは横ばいなんじゃないかと思います。

 

 またブログ主は、ヒアリングを根拠にしていますが、相談に来る時点で有為的なうえ、普段の記事の内容からも「結婚」について考えている人が集まりやすい状況に思えます。その時点で、すでにフィルタリングされているわけですから、そこから確証バイアスを導き出してしまう可能性は高いです。

 

 私は今の20代にかつてのような結婚願望が振れ戻るならば、それはジェンダー観が定着したからではなく、たんに幅広い情報から隔絶される層が出てくるからだと考えています。今の若者は情報技術を狭い世界の結束のためにも利用します。

 たとえばラインで「○○が結婚した」という情報があれば、仲間内であっという間に駆け巡るわけです。その結果、同調意識から局所的な結婚ブームは起こるでしょう。

 

 しかしながら、そういった閉じた情報から外へ目を向ける機会を得られる人は一定数いるので、そういった人は依然として結婚に慎重であると思います。



 しかし、これも一個人の、それも学の乏しい人間が考えた絵空事です。重要なのは、だれが正しいということではなく、眼前に広がる景色とそれに続く地平線に思いを馳せることです。

 

 時代が間違っていた。風潮が間違っていた。人が間違っていた。

 

 そういってしまえばたやすいでしょう。しかし、そう論じることで欠落してしまう個人の声に耳を澄ませることこそが必要だと、私は思っています。

私憤と公憤について

 私の怒りは身体的精神的な不調にもとづく、一時的なイライラぐらいしかない。普段の私は怒りの感情に無自覚だ。世の中には、怒りたいような悲痛な出来事があふれているのに、私はそれらにたいして、怒りよりも先に虚無感が来てしまう。

 

 そのような私が怒りについて書くのは少々浮足立っているのは自覚しているけれど、思いついたことを記しておきたい。

 

 怒りには二種類ある。私憤と公憤(義憤)である。私憤とは自分の不利益や損害にたいして、怒りを表すことだ。公憤は自分とは無関係のことにたいして、怒りを感じることである。

 

 たとえば、ある犯罪にあった人が犯人にたいして怒るのは私憤で、それを報道で見た人が怒るのは公憤である。

 

 自分の不利益に対して怒るのは分かりやすい。目の前に突き付けられたナイフについて考えることだからだ。しかし、自分とは無関係のことにたいしても怒るというのは難しい。それには、ある程度の人間的な知性が必要となる。この先に突き立てられるであろうナイフについて考えることだからだ。

 自分が直接かかわらない犯罪にたいして、怒りを感じるというのは、その犯罪の被害者に自分もなるかもしれないという恐怖を想像できるだけの知性があるからに他ならない。

 

 この知性が良くも悪くも、人間の命の有り様を複雑にしている。

 

 自分と関係のないことに怒るというのは本来、社会のためにある。自分が経験した辛さや苦しさを経験として、それと同じことが起きたり、起きようとしたときに怒りをもって対処する。それは二次、三次の悲劇を阻止するために必要な能力だ。

 

 しかし、それが暴走すると、自分のためにオオヤケを利用して、自分の怒りを解消するという方向に働く。

 

 それは事実を歪める。ごくごく私的な恐怖や怒りを解消する為に、他者の怒りを排除してしまう。

 

 怒りというの線引きだ。多くの人々が互いに我慢できる範囲を見つけるための儀式だ。これ以上怒ってはいけない。これ以下を我慢してはいけない。そういう約束のもとになされるものだ。

 

 しかしながら、怒りという感情のまばゆさは、そんなルールを軽やかに飛び越えてしまう。

 

 怒りの感情を突き詰めていくと、私憤を肯定するために社会的な力をつけて、他人の怒りを否定するというパワーゲームに陥っていく。

 

 パワーゲームに乗れた人は他者を蹂躙するし、乗れない人は憎悪を募らせていく。

 

 強すぎる快が他人を傷つけるように、強すぎる不快も他人を傷つける。

 

 私は、生きることが、己の快を獲得して、己の不快を否定することだというのは分かっているけれど、私の快や不快もそうであると認められないような、子供じみた幻想に囚われている。

 

 私は自分の快も不快も、他人の快も不快も無視を決め込みたいのだろう。

 

 そのような私が、社会で生きているということに甚だ疑問を感じるけれど、そのようなズレた人間が生きているというのもまた、人間の多様性の一部なのだと思ってぼんやりと生きていこうと思う。

壁を作り、壊す

 新宿を歩いていると、なにかに切迫されるような感覚に陥る。

 西にはビジネス街や官庁施設があり、東は専門店やデパート、北側には歌舞伎町、南側もチグハグだけれど開発が進んでいる。

 東西南北にそれぞれの色と意味性が垣間見える。使い古した雑巾とアイロンのかかったハンカチが丁寧に陳列されているようだ。

 

 そんな新宿を歩いていると、ときおり上空に巨大なナイフがあって「働け!楽しめ!」の声とともに、突き立てられるような気持になる。新宿は目的のある街だ。欲望や意図や目的や、さまざまな指向性のある意識を持った人間が集まって、自分の命をどうにかこうにか、思うとおりにデザインしようとしている。

 新宿は、幸福や好楽、虚実のかけらが落ちていて、それをみんなで必死に集めるイベント会場なのかもしれない。

 なにかの目標を定め、そこに向かって自分のありようを操作しようと、デザインしようとする人々が持つ「熱気と臭い」は私にとって魅力的だ。

 けれど、心の底では「命に目的を与えること」にたいして強い怒りを感じている。そんな私にとって 新宿は、香りのついた油みたいなもので、そこで泳ぐのは楽しいのだけれど、いつかは油が全身に回って死んでしまうのではないか、というベトついた恐怖感がある。

 だから私は「ただ生まれ落ちて死ぬ」のを許さない新宿の空気が少し苦手だ。

 

 先日、新宿を散歩していた。ちょっと路地を入ってみると、意外なことに小学生の下校風景に出くわした。

 ふと周りを見渡してみると型の遅れたテレビを扱ってる地域密着型の電気屋があったり、くたびれた植物が無造作に置かれたスナックがあったりと、とうてい新宿とは思えない場所にいた。

 

 子供が、ランドセルじゃんけんをしている。ふざけ合って駆けだす子供たちを、交通誘導員がたしなめつつ横断させる。周りは殆ど住宅で、とても静かだ。ときおり、子供の声がその静寂を破った。

 

 どこか異世界に迷い込んでしまったかのような心もちだ。新宿にもGATEはあるのか。それとも、狐でもいるのか。そういえば、ついさっき稲荷様を見た気もするな。なんて考えながら、うろうろしているうちに、元の大通りに戻った。

 

 この体験は、もちろん魔術でもなんでもなくて、新宿にもそういう場所があって、ただ私が見落としただけ。それがたまたま見えるようになった。言い方を変えて、私の眼前にあった壁が取り払われたのだ。

 こういうことは多々ある。たとえば、普段は景観の一部になって、ぼんやりと眺めている高層マンションにも、住んでいる一人一人の生活があって、その人たちは楽しんだり苦しんだりしている。しかし、それを隠す壁があるから私は見ることが出来ない。見ることは出来ないが、存在はしている。

 

 壁はどんなところにもあって、自分で作ったり他人に作られたり、自分で壊したり他人に壊されたりしている。

 壁とは不思議なものだ。作りたくても作れないときもあれば、作りたいのに作れないときもある。作っていることに気付かなかったり、いつのまにか誰かに作られていることもある。

 そして、壁のもっとも難しいところは、それが景色になってしまうことだ。景色になってしまえば壁は壁として思われない。ただ当たり前のこととして目に映る。

 

 一般的に壁は作らないほうがいいというけれど、それは「社会的に不便な壁を作るな」という話であって、社会的に役に立つ壁は自然と作られるし奨励される。それらは壁という表現ではなくて、道徳や常識、「仕方のないこと」といった言葉に変えられている。しかし、根っこは同じものだ。  

 

 壁は、建てれば、そこから差し込む光や風をしのげる。「○○はよくない」「○○は不幸」という壁を作れば、その先については考えなくていい。壁の先を考えない。壁の先とは接触しない。これは限りある人間の命と知能を考えれば致し方ないことだろう。

 命に目的優位性を持たせ、それに沿うようにひたすら壁を作り、まっすぐ走り抜ける。それもまた一つの命の使い方だと思う。

 

 逆に壁を壊すことや作らないことにも価値がある。壁を作らないと、風通しと見通しが良くなる。壁を作っていたら見えなかった景色を、たどり着けない場所を知ることが出来る。そのかわり、世界がどんどん複雑になっていく。ある程度の壁を作り、不必要な視点や考えはカリングしないと、それらにさらされる人間はズタズタに引き裂かれてしまうだろう。複雑であることは、ときに人を殺す。

 

 壁を作りすぎれば、生きづらくなる。作らなすぎても、生きづらくなる。どちらにせよ、生きづらい。

 

 バランスを取ったとしても、バランスを取るということに囚われれば、やはりバランスを失う。目的を持つことは人を楽しめるが、反作用として人を苦しめもする。バランスを取ることもそうだが、幸福や善悪や虚実や、そういったことを求めるのは毒入りの甘露を味わうようなことだ。

 

 私はどうしたいだろう。もう少し壁を建てるのか、さらに壁を壊していくのか。

 

 ただ一つ、私はより自由に壁を作ったり、壊したりできるようになりたい。また誰かが壁を作ろうとしたり壊そうとしたときに、冷静に状況判断をし、是非を決めて行動できるようになりたい。

 

 そのためには、より体力を付けることだろう。壁を作るのにも壊すのにも体力が必要だ。ただ体の強さをいうわけではない。もちろん、体の強さも必要だが、精神の強さや社会性の強さも大事である。肉体的な体力、精神的な体力、社会的な体力。

 

 目下、私の課題はこれになるだろう。

 

 肉体的と精神の体力は、とりあえず問題がないと思う。私は私ひとりでいる限り、肉体的にも精神的にも非常に安定している。ただ、私は誰かと関わることによって不安定になりやすい。

 その未熟さを克服すれば、また新しく見えてくるものがあるのかもしれない。もちろん、同時進行で心身の体力も育てていきたい。

大人でもウンコをもらします

 小さいころ、私はおねしょがなかなかな治らなくて、惨めな思いをしていた。それと、お腹も弱かったのでよくウンコも漏らしていた。

 

 大人はおねしょをしないので「なんてすごいのだろう」と感心していた。ドラゴンボール孫悟空ほどじゃないけれど、ヤムチャぐらいにはすごいんだろうと信じていた。

 その反面、納得いかなこともあって、そんなにすごい大人なのに、なんで世の中の問題を解決できないのだろうということだった。

 私が好んで読んだ児童書や漫画は少年少女が主人公で、次々に起こる問題を自分たちで解決していた。それは子供当事者である私に力を与えたけれど、同時に大人の不在という違和感も与えた。

 

 大人は凄いのだから、大人が解決すればいいのに。

 

 少年漫画の主人公は父親も母親もいなくて、海外で働いていたり、死んでいたり、実は生きていたり、しかも魔族だったりする。

 なんにせよ、物語的には分離されていて、ある種の象徴のように描かれ、イベントには参加するけれど、こどもと一緒になって物語の当事者になったりはしない。

 

 それは、こどもの世界と大人の世界は、別に構築されていて、こどもの世界の問題はこども達自身が解決しないといけないし、おとなの世界の問題はおとなが解決しないといけないのだという感覚を私に与えた。だから、こどもの世界で辛いことはおとなは解決出来なくて、じぶんでなんとかするしかないのだと思った。

 

 私はいつかこどもの世界を卒業し、大人の世界の仲間入りをするのだろう。なんとなく、ぼんやりとそんな未来像を描いていた。でも、実際はそうじゃなかった。

 

 子供の私。あなたに伝えたいことがある。

 

 信じられないかもしれないけれど、大人だってウンコをもらすんだ。恥ずかしいし、みっともないと思うだろうけれど、あなたが想像していたような完璧に凄くて、でも絶対にこちら側には来てくれない、そんな大人はいない。ただ、人に迷惑を掛けないようなウンコだったり、人の役に立つウンコが出せる技術が身につくだけだ。

 こどもとおとなは、隔絶されてなんかいなくて、私たちは同じ月の下でぐるぐると下手くそなフェッテをし続けている。円形だったり半円だったりするアレの、ふわっとキリキリする感覚質をずっと握りしめて生きている。

 

 あなたは今、自分の感覚や考えや状況を疑っている。それが大人になったら全部変わってしまうと思っている。でも大丈夫。最悪にも最高に、そんなことはない。

 

 あなたの世界はいろんな色を見せるけれど、けっきょくそれは同じあなたの世界だ。

 いつか、どこかで隔絶されて変わってしまうものではない。遠くに行っているような気がするときもあるけれど、ちゃんと戻ってくる。だから、今持ってる感覚や考えや状況をしっかりとつかみ取って頑張ってウンコをもらし続けていくといい。その過程で、徐々に人に迷惑を掛けないウンコや役に立つウンコのことについて考えていけばいい。

 

 朝、おならだと思って油断してたら、想定外の事態が発生したため、お風呂場でパンツを洗いながら思う。

障碍者雇用促進法について

ちょっと気になって調べたのでメモ(と呼ぶには長い)

 

 障害者の雇用の促進等に関する法律があります。

 そこでは、対象基準(労働者数100人以上*28年改正)の企業と公共団体は2%(公共団体はもう少し多い)の障碍者を雇用しなければいけないと定められています。

https://www.jeed.or.jp/disability/koyounoufu/om5ru800000010fh-att/om5ru800000010je.pdf

 

 雇用しない場合は、雇用数に満たない人数分×5万円(月額)を納付する必要があるようです。年間だと60万ですね。ただ改正後の数年は4万円に減額されるようです。

 

 それで納付されたお金はどこに行くのかというと、障碍者雇用をしている企業への調整金として使われます。これは各種障碍者雇用の助成金になって、障碍者を雇用をしている企業へと渡るようです。

 

 たとえば、発達障碍者を雇った場合の助成金ですが、労働時間にもよりますが年間120万円(中小企業の場合)のようですね。

http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/kyufukin/hattatsu_nanchi.html

 

 これって友人に発達障碍者がいたとして、会社を経営していた場合、雇うと助成金が貰えるのかなと思って調べてみたのですが、どうやら無理みたいですね。ハローワーク(もしくは紹介所)を経由しないとダメです。だから、もともと身内だったとか知り合いだったとか、そういうのは一切ダメみたいです。確かに、あんまり自由度を高くすると貧困ビジネスみたいな囲い込みが起こったり、コネのない障碍者の就労機会を奪うことになるので仕方ないと言えば仕方ないですね。

 

 こっちはもらえるみたいです

 

 障害者職場定着支援奨励金

http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/kyufukin/chiteki_seishin.html

 これは月額4万です。ただし職場支援員を配置する必要があるようなので、そういった方を雇うコストにあまり見合ってないように思います。しかも期間限定です。

 

 調べてみると障碍者雇用の制度的な支援はなかなか厳しいものです。障碍者と健常者の格差を埋めるというよりは、ダイバーシティ・マネジメントに取り組む意欲の高い企業をちょっと後押ししようか、ぐらいの内容に思えます。

 

 今後の生産は、多様性と特化がキモになってくると考えています。均質性と安定性が求められる業務はどんどんコンピュータに置き換わっていくからです。

 今までは、均質で安定した人材が求められました。なぜなら、管理コストが低くなるからです。日本は均質で安定した人材をそろえて、管理コストの面で優位性があったから成長したわけですが、現在は管理コストが技術の進歩でだいぶ減ったので、あまり優位性がなくなってしまいました。

 たとえば、挨拶と制服は「部外者の排除」という役割もあったわけですが、今ではカードキーと端末ロックに置き換えれば済みます。

 

 また、私は注意欠陥が半端なくてタイプミスが多いのですが、業務では開発環境がタイプミスを指摘したり、予測変換を出してくれるので問題ありません。

 

 そうなってくると日本の人口低下、高齢化の状況と相まって、「働ける人」の枠を出来るだけ広げていく必要があります。それにはダイバーシティ・マネジメントが急務に必要です。その状況で、意識の高い企業だけを後押しする仕組みなのは、政府の速度感がおかしいように思えます。

 

 ただ障碍者や高齢者雇用を強引に推し進めて、現場の受け入れ態勢が整わなくなってしまうと、企業も障碍者も共倒れになるので慎重にならないといけないという側面もあります。

 

 ちなみに障碍者が使用者の場合には、なにか制度があるかなと思いましたが、とくにありませんでした。(地方自治体までは探してないのであるかもしれないです)

 

 あと申請の条件を調べてたときに、いやーなやつを見つけました。

 

「各雇用関係助成金に共通の要件等」のB条4項の「受給できない事業主 」です。

 

性風俗関連営業、接待を伴う飲食等営業またはこれら営業の一部を受託する営業を行う事業

※これらの営業を行っていても、接待業務等に従事しない労働者の雇い入れに係る助成金については、受給が認められる場合があります。

 

http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/kyufukin/dl/kyoutsuu_youken.pdf

 

 これはモニョりますね。政府としてはリスクヘッジなんだろうけれど、ようするに政府は「性風俗と接待飲食の従事者は社会が守るべき存在じゃない」という考えを表明してるわけですから。性風俗や接待飲食が反社会的であるならば、そうならないようにテコ入れ(社会制度を導入し、監視と保護をする)したらいいと思うのですが、それよりも分断してしまえというのは乱暴すぎます。

 

 ちなみに熊本の震災に当たって、「障害者雇用納付金の納付期限の延長」がなされているようです。同時に「障害者雇用納付金の納付猶予」ってのもあって分かりにくいのですが、前者は熊本県内の事業主は自動的に延長になり、後者は熊本県外の事業主でも倉庫や工場が熊本にあったりして、実質の被害が大きい事業主向けということでしょう。こちらは申請が必要な様です。

 

虚無感の正体と分岐について

 私には虚無感があります。しかし、それは一般的な印象の”悲観的な”虚無ではありません。この虚無は私が望んで獲得したもので、私の危うい精神バランスを保つために必要なものです。だから、忌み嫌うものではなく、ましてや、なにかで埋めるべきものでもありません。埋めるときが来るならば、それはともに墓穴に入るときでしょう。

 

 虚無を開いたのは、さまざまに絡み合った要因をもちますが、なかでも大きいのは父親との関係です。私はある段階で、父親を引きはがす必要に駆られました。私たちは儀式を交わして決別しました。そのときに、胸中にあった軸と呼べるものが抜けてしまいました。

 その軸は強力な父権であったり、社会的成功を望むことであったり、金銭的余裕にこだわることであったりしました。

 

 私は抜け落ちた軸を補てんするために、それらを意図的に嫌うようにしました。また嫌うことでより、父親と距離が置けるとも思ったからです。

 損なわれたものを取り戻すために損う原因になったものを憎んだり怒ったりすることは必要だと言われますが、私に関してはそれは不必要でした。そもそも私の怒りや憎みは儀式を経て完結していたからです。それより先のことは、私の問題であり、いくら父権や成功や金銭を否定したところで解決するものではありませんでした。

 

 私に損失を与えた軸を否定して得たのはただ、軸を否定することや、さらにその軸を否定する軸を否定することが、大した労力でないという事実だけです。それによって、私の虚無感はいよいよ本格的に崩しがたく成り立っていきました。

 

 虚無感と向き合う方法は二種類あります。一つは軸を立てて生きることです。お金でも幸せでもなんでもいいですけれど、尺度を作って信奉すれば虚無は吹き飛びます。

 

 さいきん話題になっている音楽プロデューサーなどは、強固な軸とそれにそった目的意識と行動力を持っています。彼にとって世界は非常にシンプルなのでしょう。彼はホモソーシャルの一員ではありません。ホモソーシャルを利用してはいますが、意識はそこにないのです。そうでなければ、女性を利用しつつ男性から強固に集金するシステムを実装しようとは思いません。彼にとっては女性も男性も手ごまの一つです。セガの一件から平然と次の手を打てる精神性はそこから来ています。彼は、ジェンダーフリーが影響力をもてば、平然と女性の自立の歌を書くでしょう。

 

 父はその音楽プロデューサーを毛嫌いしていました。それは同族嫌悪であり、また正義感からきた怒りだったのでしょう。父は金の大事さを説きつつも、友人には気前よく金を貸し、震災のときには利益なしで家を修復し、そのうえで家族に金銭的困窮を感じせさませんでした。父は貧しさと低学歴という軸に囚われていましたが、それを実践的に解消していこうとしていました。

 

 実践性は社会への信頼感から生まれます。父も音楽プロデューサーも、自分の行動が社会にたいして意味を持つという信頼のもとに行動しています。信頼があるから軸を立てて生きていけるのです。

 私は社会を信頼していません。それは、世の中が善意で満ちているという考えが持てることではありません。社会そのものの存在を理解できないということです。

 社会には善意や悪意があって、それによって人が幸福になったり不幸になったりする。それ自体に強い違和感を持っているのです。

 

 その違和感を受け入れることが虚無と向き合うもう一つの手段です。つまり、社会自体を認めない傲慢な自分を許容することです。

 

 私はおそらく、タイミングと条件がそろえば、眉唾物の言い方ではありますが、サイコパスになっていたのだと思います。

 しかしながら、強固に社会性の強い、言い方を雑にすれば人間臭い父がいたから、そうならなかったのでしょう。

 

 私に共感性と思しき感覚が芽生えたのはずいぶん遅い時期でした。それは父の存在を否定し始めたときと合致します。父という対象を経ることで、あらゆる社会的な価値観は両義性をもち、恵まれる要素があれば、損なわれる要素もあるということが理解できたのです。

 

 私は恵まれる側の感情をトレースし、また損なわれる側の感情をトレースすることを覚えました。それによって、多くの操作的な言動を理解しつつも、それに流されようとする手癖がついてしまいましたが、それはそれで反社会性を阻止できたのでよいことだったと思います。

 

 サイコパスは強固な軸をもちつつ、それが均質な社会性をもたないという存在です。だから、適合度が高ければ社会で成功しますし、そうでなければ犯罪者になります。私は強固な軸を持つ人間が身近に居ることで、自分の特性を客観視することが出来たのでしょう。

 

 いま、分岐点に立っています。私は軸を持つ人に惹かれつつも、それを否定する思いが強いです。

 

 軸とは陰影です。陰影があることを許容するか、陰影自体から距離を置くか。私はどちらを望んでいるのだろうかと考えています。

 

 強固な評価軸をもち、それにたいして幸せや、怒りや、嫉妬や、まあなんでもいいのですが、動機づけをして行動するか、あるいはそれらの動機を全て焼き払って残った虚無と向き合うか、その選択のまえに私はいます。

 

けたぐり人生

 ポケモンの技に「けたぐり」ってのがあります。初代だと微妙な威力だったんで、だいたい中盤以降になるとリストラ対象になってました。

 

 それでこれってもともと相撲の技なんです。ポケモンって地味にオッサンのネタ(ユンゲラーとか)を仕込んでますよね。(相撲がオッサンの趣味かどうかは置いといて)

 

 「けたぐり」

 

 漢字で書くと「蹴手繰り」です。その字が表すように、相手の足を蹴って手繰りよせるように転ばせるワザです。柔道の出足払いと一緒ですね。

 

 それでこの技って相撲的には「ねこだまし」みたいな奇襲だとされるんですよね。だから、基本は弱い力士の苦肉の策みたいな見られ方をされるので、横綱がやったりすると「品がない」って言われるみたいです。相撲はスポーツでありながら神事でもあるので、品性みたいなのも問われちゃうわけですね。勝ち方も大事ってジャンプみたいでかっこいいですな。剣士の背中の傷は不名誉だぜ。

 

 大人になったり偉くなったりすると、そういう世間の目が厳しくなります。

 

 でも、偉くなったって凄くなったって、人間性ってそうそう変わらない気がするんですよ。よく有名人が人間臭い不祥事を起こして「幻滅した」みたいなコメントがありますが、そもそも才能と人間性は別物なので有名で金を持ってるからって、品がある必要はないと思うのです。公共性を求められる立場の人の場合は別ですけどね。少なくともエンタメは公共である必要ないと思ってます。

 

 まあ、他人の話は置いといてですね。

 

 私も、いい年こいて、ブログで臭いことを書いてるわけですが、これって人から見たら「イタい」んだろうなーなんて思ったりします。

 

 でも、私はそういう生き方しか出来ないんですよね。いい大人なんだから「けたぐり」みたいなことはやめなさいって言われましても、人生は守破離をとんとん拍子でなぞっていれば安泰ってわけじゃないから、他人に押し付けられた型や作法では生きていけない私のような人間もいるわけです。

 

 いつまでも他人の作った型に馴染めなくたって、それでも生きていくには「けたぐり」をドンドン使っていくしかないわけですね。

 

 それに、もう「けたぐり」は卒業したみたいにスマした顔してる人でも、ときおり思わず足が出ちゃってるときってありますしね。そういうときに、「あー足出しちゃった」って自覚できればいいけれど、卒業したと思ってると「相手から引っかかって勝手に転んだ」って思い込もうとするので、それじゃあいつまでたっても足癖が治らないですよね。

 

 私は足癖が悪いので、自覚的に「けたぐり」を使って生きていきます。イタくても、みっともなくても、いい大人がって言われても、技をかけたいって衝動と向き合わずに生きていくのはまっぴらです。